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古代のもっとも有能な造船技術者はフェニキア人である。彼らは、当時、競争相手でもあったエジプト人やエーゲ海沿岸の人々がつくった船よりもはるかに大きく、櫂が2列または3列に配置された性能のよいガレー船を、戦闘用に開発したといわれている。また、主として帆をつかって航行する、幅の広い丸船を開発した。丸船は、幅のせまいガレー船よりもずっと大きな貨物スペースがあり、スズの取り引きのためにイギリスや、アフリカ大陸の沿岸にそってはるか南方までいったと考えられている。
記録はのこっていないが、ギリシャのガレー船の骨格は、現在の造船につかわれるものと同様に、自然にまがった材木からできていたと考えられる。デッキの後ろの端に部屋がつくられていたが、これは船長や高級船員が居住する場所であり、また、彼らの身をまもる場所であった。デッキの先端には、フォクスル(船首楼)とよばれる高い構造物があった。そのほかの特徴は、一連のロープでの補強である。これは、船の周囲を前後方向にくくりつけ、てこで船尾に強くむすびつけるもので、ひとつは、戦闘中にほかの船に衝突したとき、その衝撃にたえられるように船を強化すること、もうひとつは、縦方向のトラス(帆桁をマストに固定する装置)としての機能をはたすことが目的だった。帆をかけるためのマストも1~2本もっていたが、帆は戦闘中はつかわれなかった。ギリシャの軍船の乗組員は約220名で、ほとんどは漕ぎ手であった。
ローマ人は地中海支配の歴史の中で、さまざまな種類の軍船を発達させた。敵の船にのりうつるための船橋をもったガレー船や、投石機をつんだガレー船などが発明された。 交易用としては、長さ53m、幅および深さが14mもある巨大な船を建造した。オベリスク(太陽の神を象徴する石柱)をエジプトからローマへはこぶために、これ以上大きな船さえもつくったといわれている。これらの大型貨物船は、3本マストに四角帆をかかげており、メインマストの上にはトップスルをつけていたと考えられる。 ローマの軍船のもっとも発達したものは、ドゥロモーン(大型快速帆船)である。これは1層または2層の櫂の列をもった快速ガレー船で、5世紀ころにつかわれた。この時期以降、軍船は、その当時の海戦で攻撃用武器のひとつだった火矢や爆発物に対し、皮革や酢にひたした布などを船体や甲板にとりつけて、船を防御した。
ローマのガレー船に匹敵する船が、スカンディナビア地方のバイキングとデーン人たちによって開発された。細長い遠洋航海用のもので獣皮で艤装され、櫂と帆の両方で推進する。もっとも小さいものは約30の櫂、大型のものは64ないしそれ以上の櫂があった。 ノルウェーの古墳の中から19世紀の後半に発見された船の遺物は、全長が23.8m、幅が5m、深さが1.8m強のものであった。この丸形の船はスクタとよばれ、基本的には帆船であったが櫂でこぐこともできるもので、バイキングがグリーンランドやアイスランドに遠征したときや、イギリス諸島を侵略したスカンディナビアの王たちにも使用された。スクタは、侵略者を撃退するために、アルフレッド大王にひきいられたサクソン人にもつかわれた。
中国では、前2000年ごろから、ジャンクとよばれる帆船を使用していた。ジャンクには河川用と遠洋航海用があり、現在でも東南アジアの人々につかわれている。 ジャンクは、中国独自の技術で開発されたもので、船内を縦横にバルクヘッド(隔壁)によってしきり、水密区画をもうけているのが特徴である。このようなバルクヘッドは、西洋では19世紀まで採用されなかったもので、船を構造的に堅牢にたもっているだけでなく、船体の一部が破損しても、浸水を区画内にとどめ、船を沈没からまもっている。 ジャンクにはキール(竜骨)はなかったが、河川用では、船底の水密区画の中心にとりつけられた重い舵取り櫂、またはラダー(舵)がこの役目をはたしていた。また、遠洋航海用には、船首から船尾にわたって、キールに相当する垂直材料がとりつけられていた。数本のマストには、台形の麻布(→ アサ)でできた帆が1枚ずつとりつけられ、迅速に上げ下げできるようになっていた。 中国のジャンクは、9世紀ごろまで、インドネシアやインドに交易品をはこんでいた。イタリアの旅行家マルコ・ポーロは、1298年に口述筆記した旅行記「東方見聞録」の中で、「ジャンクは、岩に衝突して浸水しはじめても船がしずまない」と、バルクヘッドの構造を称賛している。ジャンクは、15世紀ころには東アフリカにまで航海している。
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