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18世紀に、フランス革命に先だってヨーロッパで生まれた思想。暗黒と無知の中世が終わりをむかえ、理性、科学、人間性の尊重によって偏見を打破する新たな時代の到来を確信していた当時の著述家たちがもちいた言葉。なお、啓蒙を英語でenlightenmentといいあらわすのは、理性を光lightにたとえた伝統に由来する。 啓蒙思想の先駆けは、17世紀あるいはそれ以前にさかのぼることができる。合理主義哲学者のデカルトとスピノザ、政治哲学者であったホッブズとロック、そしてピエール・ベールのようなフランスの懐疑主義者たちの思想がそれにあたる。科学的発見からえた自信と、新大陸探検による相対主義も、啓蒙思想の基盤となった。
この時代を支配していたのは、哲学者と知識人がいだいていた人間理性への強い信頼である。ニュートンの万有引力の発見が、大きな衝撃をあたえた。人間が宇宙の法則つまり神の法則を解明できるのなら、自然と社会すべての基礎となるような法則を発見できるのではないか。理性をただしくもちいれば、知識、技術そして道徳的価値観さえもはてしなく進歩するのではないか。そう考えられるようになったのである。 ロックの哲学にならって、知は生まれつきのものではなく、ただ経験と理性によってみちびかれると、18世紀の知識人は考えた。人類はただしい教育によって改造されるし、人間性も改善される。自然観察によって発見された真理のほうが、アリストテレスや聖書といった正統的な原典研究よりも、ずっと高く評価された。 啓蒙主義思想家の多くは、過去において教会、とくにカトリック教会は、人間を隷属させる強い力をふるってきたと非難したものの、彼ら自身は宗教をすてなかった。彼らがえらんだのは、神と来世の存在はうけいれるが、キリスト教の煩雑な教理をこばむ理神論の立場である。人間がめざすべきは、来世ではなくてこの人生の改善である。宗教的救済よりも現世の幸福のほうが先決なのだ。こうして、富と政治力によって人間理性を弾圧した教会がもっともはげしく攻撃されたのであった。
啓蒙思想というのは、考え方の内容というよりも、思考態度とか方法といったほうがよいだろう。カントによればこの時代のモットーは「あえて知れ」である。従来の思想と価値観をすべて問いなおして再検討しようという動きがあらわれて、さまざまな方面で新しい思想が探求された。そのため18世紀の思想家の著述はしばしば首尾一貫せず、矛盾が生じることになった。啓蒙思想家は、フランス語で哲学者を意味するフィロゾーフphilosophesとよばれるが、ふつうイメージされている哲学者ではなかった。彼らは、仲間をふやすために自覚的努力をおしまない人民主義者であった。また、「人類の党」を自称して、世論を有利にうごかすために、パンフレット、匿名の小冊子、大量の新しい雑誌や新聞を最大限に利用した。
多くの面で啓蒙思想の母胎となったのはフランスである。この運動の初期の代表的人物のひとり、モンテスキューも体制を風刺したさまざまな作品や「法の精神」(1748)をフランスで出版している。数多くの哲学的小冊子の著者として知られていたディドロは、ダランベールとともに、パリで「百科全書」を出版した。ドルバックやチュルゴーなどさまざまな哲学者が協力した「百科全書」の目的は、あらゆる知識を要約することであるとともに、啓蒙思想の反対者を攻撃するための論争上の武器としてこれを役だてることであった(→ アンシクロペディスト)。 これらフランスの著述家の中で、もっとも大きな影響力をもった人物はボルテールであろう。もともと劇作家で詩人でもあった彼は、当時の科学と哲学を一般に普及させた膨大な量のパンフレット、エッセー、風刺、短編小説によって、またヨーロッパじゅうの知識人や君主とかわした多くの書簡によって、今日でもよく知られている。さらに特異な人物としてルソーをあげることができる。彼の「社会契約論」(1762)、「エミール」(1762)、「告白録」(1782)は、のちの政治理論と教育論に深い影響をあたえ、19世紀のロマン主義の推進力ともなった。
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