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  • バビロニア - Wikipedia

    バビロニア ( Babylonia )は、 メソポタミア (現在の イラク )南部を占める 地域 、またはそこに興った 王国 ( 帝国 )。首都は バビロン 。南半分の シュメール と北半分の アッカド を含み、北西側に アッシリア と隣接する。シュメール文明とアッカドを ...

  • 新バビロニア王国

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  • 新バビロニア - Wikipedia

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バビロニア

バビロニア Babylonia
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

バビロニア語では「神の門」を意味するバビリ、古代ペルシャ語ではバビルシュといい、ティグリス、ユーフラテス両河流域のメソポタミア南部にさかえた古代国家、またはその地域をさす。本来、南部をシュメール、北部をアッカドとよんだが、のちに両地域をあわせてバビロニアとよぶようになった。今日のイラクのバグダッド南方にあたる。

II

バビロニア文明

バビロニア文明は前18世紀から前6世紀までつづいた。先行するシュメール文明と同様に、都市を中心とする文明だったが、経済は農業に依存していた。国内には12ほどの都市があり、その周囲を小さな町や村がとりかこんでいた。政治機構の頂点には王が位置し、専制君主として立法・司法・行政のすべてを支配した。王の下には、知事や行政官のグループがおり、地方の管理は市の長官や長老会が担当した。

バビロニア人はシュメール文明をうけついだが、自分たちの文化や精神にあったものに改良した。その結果できあがった彼らの生活はたいへん効率的で、その後ほぼ1200年間かわることがなかった。彼らの文明は近隣諸国に影響をあたえ、とくにアッシリア王国では全面的にバビロニア文明がとりいれられた。バビロニア時代の粘土板文書は幸運にもたくさん発掘されており、研究もすすんでいる。その中でもっとも知られているものはハンムラピ法典で、バビロニアの社会機構や経済組織について広範囲に知る材料のひとつになっている。

1

自由民と奴隷

バビロニアの社会は3つの階級にわかれていた。上級の自由民と奴隷、そして両者の中間に位置するムシュケーヌムとよばれる下級の自由民である。奴隷のほとんどは戦争の捕虜だったが、中には市民から奴隷になるものもあった。たとえば、ある種の犯罪をおかした罰として自由民から奴隷にひきさげられることもあれば、親が子を奴隷として売ることもあった。また、借金の支払いとして、家族全員を奴隷として債権者にひきわたすことさえあった。ただしその場合の期間は3年にかぎられた。

奴隷は家財と同様に主人の財産だったので、烙印を押されたり、鞭(むち)でうたれることもあり、また逃亡しようとしたときは、きびしい罰をうけた。いっぽう、奴隷が強く健康であるときは、主人の利益にかなうので、よい待遇をうけた。奴隷の値段はその能力によってさまざまだったが、成人した男の場合ふつう20シクル(1シクルはおよそ銀8.4g)であった。

ムシュケーヌムが目か手足をきずつけられると、彼は1マヌ(60シクル。およそ銀500g)の支払いで賠償された。上級自由民が同様にきずつけられた場合は、復讐の法律が適用され、奴隷の場合は、奴隷市場の値段の半額が賠償額とされた。

バビロニアの社会では家族が基本的な単位となっており、結婚は両親によってとりきめられ、婚約が法的に成立するのは、花婿が花嫁の父親に結婚のための贈り物をするときだった。結婚式にはしばしば粘土板にしるされた契約書がともなった。バビロニアの女性は、財産を所有することや、仕事をもつこと、そして証人になる資格などの重要な法的権利をもっていた。しかし夫はささいな理由で妻を離縁することができ、もし妻に子供ができなければ、2番目の妻をめとることができた。子供たちは親の絶対的な権力のもとにあり、勘当されることもあれば、奴隷として売られることもあった。

1 A

都市と住居

バビロニアの都市の人口は正確にはわかっていないが、およそ1万人から5万人くらいだったとみなされている。都市の通りはせまく、不規則にまがりくねり、両側には家々の窓のない高いがあった。家はふつう、泥レンガでできた1階建ての造りで、中庭をとりかこむ数個の部屋からなっていた。いっぽう、バビロニアの金持ち階級の家は、およそ12の部屋をもつレンガ造りの2階建てで、内側も外側も漆喰(しっくい)で白くぬられていた。1階には応接間、台所、洗面所、召使部屋などがあり、ときにはその家だけの礼拝室がおかれることもあった。

家の地下にはしばしば墓がつくられ、死んだ家族がそこに埋葬された。バビロニア人は、死者の魂は冥界(めいかい)にいき、そこで地上と同じように生きつづけると信じていたので、道具や武器や宝石などが死者とともに埋葬された。

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