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Windows Live® の検索結果 16~19世紀にヨーロッパ各国にみられた、国王が強い権力をもち、中央集権的な官僚機構や常備軍、地方行政機構が整備された政治体制。絶対王政の進展の時期や、国王の権力の強さは、国によって大きな違いがあった。 絶対王政の萌芽(ほうが)は中世末期にみられる。14世紀の伝染病やあいつぐ戦乱によって農村が疲弊すると、地域の支配者であった領主の収入はへり、力がおとろえた。また、イギリスのワット・タイラーの乱のような大規模な農民一揆(いっき)がおきるなど、領主と農民の対立がはげしくなった。さらに火薬の導入によって戦争のやり方が変化したために、領主は騎士としての戦闘能力をうしない、社会的地位も低下した。 領主層は最高の権力者である国王の権威を利用して、地域の支配者としての地位を維持しようとした。この結果、イギリスのばら戦争やフランスの宗教戦争(→ 宗教改革)が終了するころには、国王は国内に強力なライバルをもたなくなる。一方、中世以来着実に力をつけていた商工業者や金融業者は、商業ルートの広域化や経営活動の安全をねがって国王の権力強化に好意的で、納税や融資を通じて王に協力した。とくに、新航路が発見された16世紀以降になると、海外貿易が発展し、その商業活動を保護してもらうために、国王を支持した。 国王はこうした状況を利用して、専門の官僚組織をおいたり、自分の命令だけにしたがう常備軍をおき、また全国的な徴税機構や全国共通な法体系の整備を推進する。しかし、絶対王政の段階では、君主は今日の国家のような強い力はなかった。中世以来の身分制をそのままのこし、地方の日常の秩序維持を領主層にゆだねたり、旧来の地方的な特権を容認したりしていた。絶対王政の時代の国家は一種の連邦制の国家であった。16~18世紀に各国の王権は、みずからの権力を強化するために改革を重ねるが、イギリスやフランスのように改革が進展すると、成長したブルジョワジーが身分制の秩序や統制に反発するようになった。中、東欧のように絶対王政の成長がおそい場合には、国家自体の強化がおくれるという矛盾があった。 スペインでは、カルロス1世とフェリペ2世の時代、イギリスでは、チューダー朝と前期スチュアート朝のもとで、フランスでは宗教戦争のあとのブルボン朝のもとで、絶対王政が展開された。そしてイギリスやフランスの場合には、市民革命という形態で絶対王政の時代がおわることになる。 絶対王政の理論的な根拠とされたのは、王の権力と権威が神からあたえられたとする王権神授説で、これは自分の支配の正当性を説明するための政治理論であった。なお、オーストリアやプロイセン、ロシアなどに18世紀に出現した啓蒙(けいもう)絶対専制は、君主は国民の僕(しもべ)という、この当時の啓蒙思想を利用して、一般の民衆を味方につけながら強力な領主層をおさえこみ、自己の権力の拡大をはかろうとするものだった。→ 啓蒙絶対主義
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