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考古学とは文字どおり、人類の原始・古代の生活様式の研究である。過去の多くの考古学者は、考古学を「古代の人々が生活につかった遺物(遺構と遺物)の体系的な研究」と定義し、また「古代の人々の生活の再現」と定義していた。 20世紀前半以降、アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流になり、人類学は人類の文化に焦点をおいて研究し、考古学はそれらの文化が生んだ物質的なもの、すなわち遺物の研究をおこなうと考えられるようになった。つまり考古学では、古代の土器などを文化年代決定の指標とし、またその物自体の美術的価値を研究することに主眼をおいていた。 日本の考古学は歴史学の一分野であり、記録文書による文献学的方法をおぎなうかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。アメリカを中心に考古学は人類学の一部という考えが強いが、ヨーロッパでは先史時代を考古学的に研究する先史学という伝統的な学問分野があり、歴史学や人類学と関連をもちながらも統合された分野として独立している傾向が強い。 現代考古学は、関連する多くの分野と連携している。たとえば、年代を決定するときも、しばしば他の学問分野で開発された技術がつかわれる。物理化学者が開発した放射性炭素年代測定法(炭素14法)・フィッショントラック法は、原子物理学的手法によって現在から何年前の遺物かが数十年から数万年単位でわかる(絶対年代)。地質学者が開発した地質学的年代決定法では、火山灰や堆積(たいせき)土などの地層の上下関係によって年代を知ることができる。古生物学者による動物層の研究や堆積層にふくまれる生物化石から評価する花粉分析法・プラントオパール法などもある。さらに考古学者は、X線写真やファイバースコープなども調査に活用し、古代の生活様式を再現するため人類学・建築学・金属冶金学・社会学・人口統計学・地理学の分野で開発された技術や成果もつかう。→ 年代測定法
考古学の歴史はヨーロッパにはじまる。ルネサンスから18世紀までつづいた古物収集家による古代ギリシャ・ローマを中心とした美術品などの収集がその源流である。ドイツのウィンケルマンは18世紀後半、このギリシャ・ローマ美術の様式(考古学では型式)的発展を説き、近代的考古学の先駆者となった。そして18世紀末~19世紀前半、3つの出来事がおこる。 1つは1799年に、のちにアメリカ大統領になるトマス・ジェファソンがバージニア州の所有地内の塚を発掘した報告文を発表したことである。2つ目はほぼ同じ時期、イギリスのフレールが前期旧石器時代(アシュール文化)のハンド・アックス(握斧:あくふ)を発見し、そこから人類の行動を解明しようとしたことである。3つ目の出来事がもっとも重要で、デンマークのトムセンによって石器時代・青銅器時代・鉄器時代という3時代区分法が生まれた。それまで混沌(こんとん)としていた先史時代の遺物をこの3時代によって整理し、人類は石器時代から青銅器時代そして鉄器時代とあゆんできたと提唱したのである。 このころフランスやイギリスでも考古学的研究がはじめられている。1822年にはフランスの古代エジプト学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンのヒエログリフ(古代エジプトの聖刻文字)を解読し、19世紀半ば、イギリスのローリンソンは3カ国語で書かれたビストゥン碑文の古代ペルシャの楔形文字を解読、聖書に関係する中東地域の古代研究が飛躍的に発展することになる。これらをはじめ考古学研究はイギリスのハットンやライエルら18世紀後半~19世紀前期の地質学者たちの業績におうところが大きい。またライエルの斉一説はダーウィンの進化論の出発点になった。 それにつづく新しい時代は1859年前後、ダーウィンとウォーレスが人類の文化的進化と関連する有機的進化論を発表したときにはじまった。そしてその後、旧石器時代の基礎的研究がモルティエの旧石器時代区分(いわゆるモルティエ編年)をもとにフランスではじまる。このころ、さまざまな発掘が中東やギリシャ・ローマでおこなわれたが、シュリーマンによる1870年からのトロイアの発掘はもっとも有名である。トロイアではシュリーマンの死後も発掘がつづけられた。 また、イタリア北部のポー川周辺やスイスのボーデン湖畔などの杭上住居跡の調査、デンマークでのバルト海地方の発掘調査、イギリスにおける古代の古墳や村の発掘など、ヨーロッパ各地の調査の結果、すぐれた考古学技術や方法も発達した。ヨーロッパの考古学者はアメリカへも関心をむけ、ミシシッピ文化(8~16世紀)の遺跡を研究するための調査団が派遣された。→ カホキア
20世紀になると19世紀に確立された考古学方法によって、発掘調査が世界各地でおこなわれるようになる。 20世紀前期は、中東が最大の考古学の調査現場となった。1901年、フランスの調査隊によりイランのスーサでバビロン王ハンムラピの「ハンムラピ法典」が発掘されている。22~34年、イギリスのウーリーはウルを発掘、またエバンズは1900年にクレタ島で発掘をはじめてクノッソス宮殿を40年近く調査した。ブレステッドとシカゴ大学東洋研究所はイランを調査し、イギリスのカーターとカーナーボンはエジプトで王家の谷などを発掘した。19世紀からフランスとイギリスがアッシリアの首都ニネベの調査をはじめ、20世紀前半にはイギリスのトンプソンが本格的に発掘している。 1902年にはスペイン北部のアルタミラ洞窟など旧石器時代の調査がおこなわれ、中国・ビルマ(ミャンマー)・インド・ジャワ・中東・アフリカでは石器など旧石器時代の遺物が発掘された。前期旧石器時代の存在が各地で確認され、石器型式学が確立した。アメリカでは26年、ニューメキシコ州フォルサム遺跡から石器(尖頭器:せんとうき)とともに大型動物の骨が出土した。これは、のちアメリカ大陸最古の人類文化とされるパレオ・インディアン文化期のもので歴史的大発見といわれた。 古代ギリシャ・ローマ時代を対象とする古典考古学の分野でも、研究成果は膨大なものとなった。新石器・青銅器・鉄器時代の調査が多くの国でおこなわれ、なかでもデンマークとイギリスの考古学者らの活躍がめざましかった。また年間の沈泥量をもちいた泥炭層位研究法をはじめ、花粉分析法・微細遺物研究法・航空写真法などの新技術が開発されている。
1950年代、アメリカの若い考古学者の中に文化的変化や年代決定をしるすだけでなく、それがなぜ、どのようにしておこったかを理解しようとする動きが出てくる。60年代になると、アメリカのテーラーらはこれまでの研究が年代学を重視しすぎていると非難し、現在の文化人類学的データから過去の文化を解釈しようとした。つまり、現代に生きている民族の生態モデルを発掘資料の解釈に応用しようとしたのである。彼らの見解では、考古学者は土器の型式をもとに年代を決定することで満足すべきではなく、データをあつめて仮説を出し、演繹的にアプローチすべきであるとした。彼らの目標は文化的変容の法則を科学的に確立することだった。ひとつの地域の考古学調査によって変化の過程を理解すると、ほかの地域にも適用できる概念が生まれると考えた。 この新しい動きの指導者がアメリカのビンフォードである。彼は1960年代にニュー・アーケオロジーとよばれる分野を開拓、文化人類学者と同じように伝統社会に生きる人々の生態を調査し、仮説をたてた。その基本的特徴は、(1)進化論を使用している、(2)分析にはさまざまな学問の調査方法をもちい、コンピューター技術なども駆使する、(3)システム論を使用している、などである。60年代の調査の成果がいかされ、70~80年代にニュー・アーケオロジーの科学的法則化がかなりすすんだ。ニュー・アーケオロジー学派の仕事は、現在の考古学に多くの影響をあたえている。 その一方で最近では、炭素14法を基盤としたヨーロッパ先史時代の年代観が、測定方法の欠陥のため不正確な部分があることが明白になってきた。それにともない他の年代観も修正をせまられ、今まで考えられていた以上に先史時代の文化は発達していたことが明らかになりつつある。たとえば、冶金技術は中東で発明され、各地に広がったと考えられていた。しかし、現在では世界のいくつかの遺跡で冶金がおこなわれたことがわかり、1カ所から世界に広まった発明ではなかったと考えられるようになった。
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