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項目構成
これまで考古学とはどんな学問かについてふれてきた。次に考古学のこれまでの成果と、最近の1~2世紀に発掘された代表的な遺跡・遺物についてのべる。
2000年(平成12)11月に発覚した旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件の結果、前期~中期旧石器時代のものとされてきた遺跡のほとんどが否定された。しかし、9万~8万年前の可能性のある岩手県遠野市の金取遺跡(かねどりいせき)の調査がおこなわれ、長野県飯田市で後期旧石器時代(約3万5000~1万数千年前)以前とされる竹佐中原遺跡が発見されるなど、旧石器文化の存在がすべて否定されたわけではない。今後は信頼のおける遺跡をもとに議論され、新しい旧石器研究の規準づくりがおこなわれることになる。→ 岩宿遺跡 旧石器時代につづく縄文時代には、世界史的にみても最古といえる約1万数千年前に土器がつくられはじめた。最初の土器は、粘土をこねてつくった無文のものや、簡単な無文土器に粘土の小粒や紐(ひも)をはりつけて焼いたものだったが、その後、縄文中期(前3000~前2000)に土器は飛躍的に発展し、種類もふえて精巧さをきわめた。 縄文時代の人々は採集・狩猟・漁労を主とする生業をいとなみ、貝塚をもち、半地下式の竪穴住居が10~20軒ほどあつまって1集落とすることが多かった。各集団間の交流・交易は活発で、丸木舟などをつかって100~200kmもはなれた地域間を移動していたこともわかっている。しかし、鹿児島県の上野原遺跡のように、すでに定住していた早期の集落が発見され、青森県の三内丸山遺跡では、中期の大集落がみつかり、一時は500人にもなる集団が1000年以上も長期間居住していたことが判明。従来の縄文時代のイメージが大きくかわりつつある。→ 亀ヶ岡遺跡 約2400年前、中国大陸・朝鮮半島から稲作農耕と金属器(青銅器・鉄器)をもつ集団が日本列島に移住したことにより、弥生時代がはじまった。縄文時代にも原始的な栽培農耕がおこなわれていた可能性は高いが、本格的な稲作は弥生時代にはじまった。集落単位で水田をつくった跡や、収穫後の稲を管理する倉庫など前代にはなかった建物をふくむ大規模な集落跡がこれまでにみつかっている。稲作は弥生中期に東北地方中部まで広がり定着する。 集団農耕を基盤とした弥生時代には階級的な身分制度も生まれ、弥生時代を代表する方形周溝墓や墳丘墓でも、墓の規模・内容・場所・遺物などに明らかな差がみえる。第2次世界大戦前や戦中に存在がわかり、戦後に発掘された福岡県の板付遺跡や静岡県の登呂遺跡は、この時代の遺跡として有名である。近年では、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が弥生時代の大環濠集落遺跡として、鳥取県の妻木晩田遺跡が「クニ」形成期の大集落遺跡として知られるようになり、同じ鳥取県の青谷上寺地遺跡では3人分の頭蓋骨(とうがいこつ)から脳の一部がみつかり話題となった。 日本の古墳の代表である前方後円墳は、3世紀前半につくられはじめる。はじまりは奈良盆地の南と思われているが、邪馬台国の所在地の問題とからんでいまだ明確な答えは出ていない。しかし2001年、奈良県桜井市の纏向遺跡にある勝山古墳から出土したヒノキ材を年輪年代法で測定したところ、「紀元199年プラス12年以内」であることがわかり、古墳の出現時期を3世紀前半とする有力な資料となった。さらに、木材が伐採まもなく使用されたとすれば、3世紀初めの可能性さえあり、卑弥呼の時代にはすでに古墳がつくられていたことになる。邪馬台国大和説の有力な証拠ともいわれた。前期の前方後円墳は奈良盆地に多いが、ほとんどが陵墓に指定され発掘できないため、その実態は不明なことが多い(→ 天皇陵)。 5世紀になると、応神天皇陵・仁徳天皇陵とつたえられる古墳など、全長400mをこえる大型の前方後円墳が河内平野などにあらわれ、全国にも大型前方後円墳が築造されはじめる。また1985年に未盗掘のまま発掘され話題になった奈良県の藤ノ木古墳は、6世紀後半の円墳である。7世紀後半になると宮都が建設される一方で古墳も小型となる。彩色壁画で有名な高松塚古墳がその代表とされる。 本格的な宮都は7世紀末につくられた藤原京にはじまり、平城京、長岡京、平安京と順次宮都の規模は拡大していく。最新の発掘調査で藤原京がかなり大規模だったことが判明するなど、宮都の発掘調査によって文献史学では不明な点が次々に明らかにされてきている。一方、8世紀以降各地に建立された国分寺や、国府などの発掘も全国的におこなわれている。さらに郡衙(ぐんが)などの地方官衙遺跡も近年発見例が増加している(→ 官衙・国衙遺跡)。→ 歴史考古学
中国の考古学は、19世紀末~20世紀初めの日本と欧米人の調査にはじまる。鳥居龍蔵は新石器時代と漢代の遺跡を調査し、浜田耕作は漢代の墓を発掘している。雲岡石窟の重要性を指摘し、その後の調査のきっかけをつくったのも日本人だった。 オーストリアの古生物学者ツダンスキーらは北京市南西郊外の周口店でシナントロプス(北京原人)の歯を発見、スウェーデンの地質学者アンダーソンが1926年に報告した。その後、動物の骨や石器、火をつかった炉とともに40体分以上が発見されている。 中国北部では、狩猟、採集生活をいとなんでいた旧石器時代の遺跡が山西省丁村(ていそん)などで発掘されている。旧石器時代の人々は水辺でキャンプ生活をし、石器を使用していた。のちには植物栽培や家畜飼育もはじまる。1970年代には前6000~前5000年にさかのぼる磁山文化や裴李崗文化という新石器時代早期の遺跡が黄河中流域でみつかった。中国の稲作の起源は諸説あるが、もっとも古いとされる栽培稲の籾殻(もみがら)が長江下流の上山遺跡(浙江省浦江県)から大量にみつかっている。これは前8000年ごろのものである。前7000年ごろの長江中流域の彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)からは籾痕(もみこん)のある土器、同じく長江中流域の遺跡から前6000年前の栽培稲1万2000粒、さらに長江下流域の河姆渡遺跡でも籾殻がみつかっている。長江下流域では前4000年ごろの水田遺構も発掘されており、前5000~前4000年ごろまでには本格的な農耕生産がはじまっていたと考えられ、農耕に基盤をおく長江文明の存在が明らかになった。→ 三星堆遺跡 中国北西部の黄河中流域では、磁山・裴李崗文化につづいて前4800年ごろから仰韶文化をになった人々がいた。この文化には地域差があるが、1953年に発見された西安市の半坡遺跡の調査では、野生植物を採集し、アワやカラシナを栽培していたこと、集落が環濠でかこまれていることなどがわかっている。村の中心には集会場などの公的建物と思われる大きな建物がある。縄文陶や彩陶、織物もみつかった。 仰韶文化は、前2900年ごろ竜山文化にひきつがれていく。また山東省域でも卵の殻のようにかたい黒陶を特色とする竜山文化が発達した。 竜山文化の時代をへて、やがて青銅器時代に属する殷・周王朝が生まれた。殷王朝に関する資料は河南省鄭州市近郊の遺跡に多く、殷代には身分の差など社会面や政治面で大きな変化があり、中国最古の文字である甲骨文字があらわれた。殷代の中心地だった鄭州からは城壁や宮殿の跡もみつかり、青銅製のすぐれた作品を生んだ職人や農民はその外にすんでいた。 1928年から中央研究院歴史語言研究所が河南省安陽市で殷代後期の中心地だった殷墟の発掘を開始した。49年以降は中国科学院(現、中国社会科学院)が調査を継続し、ここでみつかった1万点以上の卜骨(ぼっこつ)は、殷の文化を解明するうえで貴重な資料となっている。墓からは殉葬の跡や豊富な副葬品も出て、王族の政治的・経済的な権力の大きさがよくわかる。
インドとパキスタンはイギリス統治時代に考古学調査がはじまり、アジアでもっともはやく考古学が成立した。18世紀末~19世紀にイギリスの学者たちが、アショーカ王石柱、サーンチーなどのストゥーパ、エローラ石窟寺院など仏教遺跡を中心に調査・発掘している。 1920年代になってインド考古学に新領域がひらかれた。インダス文明の発掘である。インダス文明(ハラッパー文化)はパキスタンにあるモヘンジョ・ダロやハラッパー、インドのドーラビーラが代表的な遺跡で、モヘンジョ・ダロはイギリスのマーシャルが、ハラッパーはサハニがともに20年代に発掘した。この文明の中心都市からは共通して赤地黒色文の土器、宝石、石・青銅製の道具、独自の形をした未解読のインダス文字のついた印章などが出土する。都市遺跡では整然と配置された焼成煉瓦の建物や排水・下水設備なども明らかとなった。→ インド美術
メソポタミアの考古学は、リッチによるバビロン(1812)とアッシリアの首都ニネベ(1820)の詳細な観察・調査からはじまった。1843~45年にはフランスのボッタがニネベとコルサバード(現在のイラク)近くの遺跡を発掘し、その後イギリスのレヤードはニネベとニムルド(古代名カルフ)の発掘をおこなった。ドイツのグローテフェントらが古代ペルシャの楔形文字解読の端緒をひらき、ローリンソン、ヒンクスらはアッシリア・バビロニアの楔形文字を解読し、ニネベの石彫や何万点もの粘土板に書かれていた内容がわかった。 1903~14年、ドイツの調査団は前14~前9世紀にアッシリアの首都だったアッシュールの本格的な層位的発掘をおこない、高度な技術で煉瓦をつみ重ねた前3000年~3世紀の神殿や宮殿を明らかにした。これらの建物の楔形文字の碑文の多くから初期アッシリア文化やアッシリアのバビロニアへの依存関係、歴史などが明らかになった。1899~1917年、これよりさらに南方でコルデワイらドイツの調査団が、ネブカドネザル2世の時代に最盛期をむかえたバビロンの都市遺跡を発掘。青い彩釉煉瓦と奇怪な動物のレリーフでおおわれたイシュタル門、守護神マルドゥクの神殿、王宮などが代表的な建物である。アッシリアの発掘は現在もつづき、1949~63年にはイギリス人考古学者マローワンらがアッシリアの首都だったイラクのニムルドの宮殿や神殿を精密に発掘調査し、良質の象牙細工(ぞうげざいく)が何百点も出土した。 1877年、フランスのサルゼックは前2130年ごろの古代都市ラガシュを調査し、シュメールのグデア王(ほぼ前2144~前2124)の彫像を発見した。この発見により、シュメールの研究がはじまる。1889年、アメリカの調査団はシュメールの都市ニップールの発掘をはじめ、数万点ものシュメール語の楔形文字粘土板をみつけた。 1922~34年のイギリスのウーリーによるウルの発掘で、シュメールの王墓(前2500頃)と住居(前1800頃)が明らかになった。フランスのパロは1935~38年、51~54年にユーフラテス川中流域にあるマリ(現在のシリアのテル・ハリリ)を発掘し、前1800年ごろの大宮殿をみつけ、そこの文書庫などから2万点以上の粘土板文書を発見した。1928年にはじまったドイツ人によるウルク(現在のワルカ)の発掘では、前3500年ごろの建築物や現存最古といわれる初期の粘土板文書がみつかった。神殿などの壁や柱は華麗に装飾され、出土遺物も芸術的にすぐれたものが多く、巧みな職工技術が明らかになった。→ メソポタミア美術
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