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項目構成
シリアとパレスティナの発掘は、人類最初の定住生活の研究にとってとくに重要である。ヨルダン川のほとりの平野にあるエリコ遺跡は、1952~58年、キャサリン・ケニヨンが発掘し、前8000年にここで農耕生活がおこなわれていた可能性のあることが明らかとなった。前2500年ごろにはシリア北部のエブラの王がシリアを統一したが、同地にさかえた文明については、60年代以降にイタリアのマッティエが発掘した多くの粘土板文書によって知ることができる。 1929年以来、フランスの調査団がシリアの地中海沿岸でウガリトを発掘した。前1900~前1200年ごろに繁栄した都市で、キプロス、クレタ、ギリシャの陶器は西方との交易をしめし、エジプト語のパピルス文書や楔形文字の粘土板文書などもみつかり、バビロニアやエジプトとも交流があったことがわかった。粘土板文書の中には世界最古のアルファベットのひとつといわれる文字の書かれたものがある。
古代エジプトの調査は、1798年のナポレオンの遠征の際、同行した学者たちによってはじまった。翌年にはヒエログリフ、デモティック(民衆文字:ヒエログリフ略書体)、古代ギリシャ文字のきざまれた石碑ロゼッタ・ストーン(大英博物館蔵)が発見され、1822年にフランスのシャンポリオンがヒエログリフの解読に成功した。58年にはカイロ博物館の前身である保存陳列館が設立され、その後散逸していた古代エジプトの文化遺産の多くが収集された。 ナイル川流域の人類の痕跡(こんせき)は旧石器時代からみられるが、1920年代から中部エジプトの調査がおこなわれ、新石器時代後期の人々が豊かなナイルの土壌で農業をはじめ、オオムギなどをうえたと思われる遺跡が発見された。これはバダーリ文化とよばれ、前4500年ごろには農業とヤギ、牛の飼育、土器や編物づくりがはじまり、石器と銅がつかわれていたことがわかった。 1894~95年にイギリスのピートリーがナカダを調査し、2000以上の墓を発見、エジプトの先王朝時代のおよそ前3800~前3000年の文化が注目されるようになる。石や象牙製の剣先や柄の彫刻がメソポタミアのものと関連するなど、西アジアとの活発な交流も明らかになっている。北部エジプトでも、ファイユームなど先王朝時代の遺跡が1920~30年代に発掘された。 ナカダやアビドスでは権力をもつ一族や統治者が生まれ、先王朝時代末ごろから豪華な墓がつくられた。サッカラの遺跡には初期王朝時代の重要な墓地群があり、ここの階段ピラミッドとよばれる最古のピラミッドから、やがて石の斜面をなめらかにしあげたギーザのクフ王の大ピラミッドへ進化したことがわかった。 エジプト考古学は、最近まで墓や神殿を中心に研究され、多くの彫刻・絵画・工芸品などが発見されている。なかでも新王国時代第18王朝の王で前14世紀に統治していたツタンカーメンの墓は豪華な副葬品や黄金のマスクなどで世界的に有名である。これらは1922年にイギリスのカーターによってルクソール近くの王家の谷で発見され、埋葬されていた宝の大半は現在、カイロ博物館に所蔵されている。 同じ第18王朝でツタンカーメン王の義父でもある宗教改革王イクナートンは、アケトアテン(現アマルナ)に新しい首都をおいた。同地で1887~91年、アッカド語(バビロニア方言)で書かれた約400点の粘土板文書(アマルナ文書)がみつかり注目された。これらは、前1375~前1330年の中東地域の列強がエジプト王にあてた手紙である。 エジプトの王墓から出土した前15~前13世紀のミュケナイ文明の陶器は、ギリシャの考古学研究にとってもきわめて重要な資料である。またアレクサンドロス大王による征服(前332)後数百年の間、エジプト語にかわってギリシャ語がつかわれるようになったが、その間にしるされた数千点のギリシャ語パピルス文書が、カイロ南西約100kmのファイユームで発見された。そのほか、オクシリンコス(現バフナサ)などからも何千点ものパピルス文書がみつかっている。これらは当時の生活を細かくしるし、なかにはギリシャのソフォクレスやエウリピデス、プラトンらの著作本や、新約聖書に関係するものなどがある。→ エジプト美術
石器時代・青銅器時代・鉄器時代とつづく時代の名称は、ヨーロッパの歴史の進展にあわせて、それぞれの時代にもっとも特徴的につかわれた素材から名づけられた。石器時代と青銅器時代の間に過渡期として銅器時代(金石併用時代)をもちいることもある。 ギリシャの考古学は青銅器時代の研究からはじまる(→ エーゲ文明:ミノス文明)。青銅器時代につづく鉄器時代は前1200年ごろのミュケナイ文明の崩壊後に発達し、5つの考古学的時代に区分される。陶器にみられる様式から原幾何学様式期(ほぼ前1100~前900)、幾何学様式期(ほぼ前900~前650)とよばれる時代のあとにアルカイク期(ほぼ前650~前475)、古典期(ほぼ前475~前323)とつづく。そしてヘレニズム期(ほぼ前323~前31)はギリシャ文化が地中海中央部やオリエントの地域に広まった時期で、そのきっかけはアレクサンドロス大王の大遠征である。 原幾何学様式期と幾何学様式期の範囲はギリシャ本土と小アジアのイオニア(西)の沿岸地域だった。そして幾何学様式期の末期~アルカイク期には、交易活動の拡大と人口の過密を解消するため、ギリシャの都市国家はシチリア島とマグナ・グラエキア(偉大なギリシャの意)とよばれた南イタリアや黒海沿岸地域に植民地をきずいた。考古学者たちは発掘によってこれらの植民地の詳細な年代を明らかにした。古典期以降は文献資料もふえ、年代決定の有力な武器となる。 アルカイク期~古典期にギリシャ本土のアテネ、スパルタ、コリントスなどの都市国家(ポリス)が繁栄するが、ヘレニズム期になると、小アジア沿岸のエフェソス、エジプトのアレクサンドリアなどの都市がギリシャ人やマケドニア人の手でつくられ、ギリシャ文化はローマへもおよんだ。→ ヘレニズム時代 エーゲ海最大の島であるクレタ島の最近の発掘によって、暗黒時代とよばれる鉄器時代初期の遺物がみつかった。クレタ島など地中海地域の調査では、現在大がかりな地形調査、動植物化石の分析、コンピューター処理といった新しい方法が駆使されている。 アテネは1834年に現在のギリシャの首都となって以来、考古学調査がおこなわれてきた。はじめギリシャの考古学者たちが、のちにはアメリカの考古学者たちが発掘し、建物跡とともに膨大な量の彫像・陶器・装飾品などを発見した。アテネのアクロポリス美術館は、85~91年に発掘されたアルカイク期の彫像群が所蔵されていることで知られる。ほかにもコリントスとスパルタなどが調査され、オリュンピアやデルフォイなど聖地の本格的な発掘は、ドイツやフランスの調査団が19世紀後半からおこなっている。→ ギリシャ美術
イタリアでは旧石器時代から人類がすみ、ポー川流域の青銅器文化や鉄器時代初期のビラノーバ文化はよく知られているが、ローマに人がすみはじめたのは鉄器時代初期である。 ローマおよびローマ帝国の考古学は、前1000ごろにおこった鉄器時代、王が支配していた王政期(伝説の時代)、共和政期、帝政期にわけられる。王政期は前510年までとされ、エトルリア人による君主政治から共和政にかわったときにおわった。共和政期の終わりは、前31年にのちのアウグストゥス皇帝、オクタウィアヌスがアクティウムの海戦で敵に勝って権力をにぎったとき、または前27年に彼がアウグストゥスの称号をえて新しい支配体制をうちたてたときとされる。 20世紀に入って、鉄器時代と共和政期についての考古学的成果があった。ローマ七丘のエスクイリヌスやパラティヌスの丘では、鉄器時代の前1000~前800ごろにはじまる集落がみつかっている。また前7~前6世紀はじめに、いくつかの集落が統合して都市を形成、のちに貴族たちがエトルリア人の王にかわって共和政をしき中部イタリアを統治してゆく中心都市に成長する過程が明らかになった(→ エトルリア文明)。 共和政期の前2世紀はじめにローマはイタリアとシチリア全土を征服し、地中海東部にまで軍をすすめ、帝政期のはじめには地中海世界全域を支配した。ローマの領土拡大の軌跡を知るうえで各地にたてられたローマ式記念物の調査は役だつ。各地で地方色を加味したローマ様式の建物跡もみつかっている。ローマ人は前3世紀ごろ原始的なコンクリートを発明した。これは、石や煉瓦を骨材として石灰とまぜたもので、それまでの直線的な工法以外に新しくパンテオン(128頃)のアーチ型天井のような曲線的な建物の建設も可能になった。 帝政期の重要な考古学的記録は、ナポリ南部の埋没した都市ポンペイとヘルクラネウムである。紀元後79年のベズビオ山の噴火によってうめつくされたこの2つの都市は、18世紀に発掘調査がはじまり、現在も科学的な方法を駆使しながら、精細な調査がつづいている。 帝政期のアウグストゥス以降の皇帝たちはローマ帝国を拡大し、2世紀ごろにその領土は、北はイギリス諸島、東はカスピ海まで達した。ローマ帝国は同じ都市計画のもと各地に植民都市を建設。東西南北にのびる道路を中央で交差させ、碁盤の目を基本とした典型的なローマの都市をつくり、中心に公共広場であるフォルムやバシリカとよばれる市民ホールのような長方形の多目的建物などをたてた。ほかにも、高所にテラスのついた神殿、浴場、円形劇場(闘技場)、大競技場(キルクス)、図書館、屋内外の市場などがあり、大規模な公共上下水道施設をともなう例も多い。→ ローマ史:ローマ美術
アジア大陸からベーリング海峡をとおってアメリカ大陸に新人の移動がはじまった時期については、さまざまな説が出されており定説はない。3万~2万年前の可能性もあるが、そのころの明らかな人類文化はまだ発見されていない。現時点でもっとも確実なところは1万5000~1万4000年前とする説である。アメリカのニューメキシコ州フォルサムで1926年、槍(やり)先形尖頭器が発見された。これはアメリカ大陸の人類文化として最古といわれたパレオ・インディアン文化のはじめての発見で、1万年前ごろにはすでに狩猟を中心とする生活をしていたことがわかった。 その後、同じニューメキシコ州クロービスでさらに古いパレオ・インディアン文化期の尖頭器がマンモスなどの骨とともにみつかり、近年ではバージニア州のカクタス・ヒルやチリのモンテ・ベルデでそれ以前の石器文化が発見されたという報告がある。 メキシコのテワカン川上流域の調査では、前5000年ごろの食糧のうち10%を栽培植物が占めることがわかった。小規模な栽培段階をへて、前2000年ごろにはトウモロコシを中心にマメやカボチャを栽培する農耕文化が中部アメリカに広がっていった。同じころにはアンデス地方でも農耕がおこなわれていたが、この地方に特徴的なのはリャマなどの家畜化がすすんだことである。彼らはワタやヒョウタンを栽培して布をつくったり、漁猟に利用したりもした。最近、ペルーのリマの北約200kmにあるカラル遺跡(前2600頃~前2000頃)が、アメリカ大陸最古の都市遺跡であるとする報告が出され、話題となった。大きな広場や台形のマウンド(ピラミッド)が6つ確認され、アンデス文明の黎明期(れいめいき)とされてきた時代に、すでにかなり高度な技術をもつ社会があったことをものがたる遺跡である。 メキシコ、グァテマラの中央アメリカと、ペルー、ボリビア北部、エクアドル南部のアンデス地域は、農耕を中心とする定住村落をつくるようになり、やがて両地域は独自の都市国家文明をきずいた。代表的なものがメキシコのアステカ王国(14~16世紀)とペルーのインカ帝国(帝国を拡大したのは15~16世紀)である。 メキシコではアステカ王国以前にオルメカ(前15~前7世紀)・テオティワカン(1~6世紀)・トルテカ(7~13世紀)などの文化があった。同時期に中央アメリカにはマヤ文化(前15~16世紀)をきずいた人々がいた。ユカタン半島を中心にすむマヤはすぐれた暦法や建築技術をもつマヤ文化を発達させ、最盛期は3~9世紀である。神殿建築で有名なパレンケでは1952年に王墓が発見され、石碑には象形文字(ヒエログリフ)が書かれていた。ボリビアではティアワナコ(3~6世紀)が、ペルーではチャビン文化(前9~前3世紀)とチムー文化(14~15世紀)がインカ帝国以前に繁栄した(→ チャビン・デ・ワンタル)。 こうした帝国に共通する特徴は、都市国家であること、階級制度、複雑な交換経済、記念碑的な建物、数の概念、集約農業をもっていたことなどである。アステカ、インカの都市国家は、16世紀にやってきたスペイン人に征服された。→ アメリカ先住民:チチェン・イッツァ:マチュ・ピチュ:モンテ・アルバン:プレ・コロンビアン美術
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