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1770~1850 イギリス・ロマン派の代表的な詩人。彼の理論と文体は、詩に新しい伝統をつくりだした。
カンバーランド州(現カンブリア州)コッカマスに生まれ、ケンブリッジ大学のセントジョンズ・カレッジでまなんだ。青年時代から自然を愛し、学校の休暇中には、景色のうつくしい地方にしばしば足をはこんだ。1790年の夏には、フランスからスイスまで徒歩で旅をしている。91年に学位を取得すると、あらためてフランスにわたり、フランス革命(1789~99)の理想を熱烈に擁護するようになった。しかし、英仏関係の悪化と経済的な問題から、フランス人の恋人アネット・バロンをのこしてイギリスに帰国する。その直前の92年12月に、アネットは彼の娘を生んだ。 詩は学生時代から書いていたが、1793年にはじめて「夕暮の散歩」と「風景小品集」が出版された。いずれも、内容は新鮮で独創的だが、18世紀イギリス詩の型にはまった形式から脱しておらず、ほとんど注目されなかった。 文筆業でえる収入はわずかしかなかったが、1795年に知人の遺産900ポンドがはいり、困窮はしばらく緩和された。そのすぐあと、彼は妹ドロシーとともにドーセット州レースダウンにうつりすむ。ドロシーはワーズワースにとって、腹心の友であり、詩作をはげましてくれる存在であった。後年の彼女の精神障害は、弟ジョンの死と同様、彼を深くかなしませた。
1795年、ワーズワースは、詩人コールリジと知りあう。彼はワーズワースの詩を熱烈に称賛した。この2人の詩人の親密な友情は、97年にワーズワース兄妹がコールリジの家の近くのサマセット州オールフォクスデンにうつりすんだことから、永続的なものになった。そのすぐあと、彼らは、「抒情(じょじょう)歌謡集」(1798)を共同執筆した。 この作品は一般的に、イギリスの詩におけるロマン主義運動の始まりとされる。大半の詩はワーズワースによるもので、とくに「ティンターン・アベー廃墟数マイル上流で書かれた詩」は注目に値する。コールリジは、有名な「老水夫行」をよせている。「抒情歌謡集」は、わざとらしい古典主義に反旗をひるがえした画期的な作品だが、出版当初、主要な批評家からは冷淡にあつかわれた。 この「抒情歌謡集」は、増補して1801年に再版されたが、ここでワーズワースは、みずからの詩の理論を擁護するために、「序文」を執筆してくわえた。彼は、感覚が直接経験することが詩の真実を生みだすということを前提に、詩は「平穏の中で思いおこされる感情」から生まれるのだと主張し、力強い感情の詩的な描写を犠牲にしてまで形式を重視することを拒否した。そして、日常の風景や出来事、あるいは平凡な人々の会話こそが、詩の新鮮な題材であり、詩はこれらによってつくられるべきだと主張した。批評家の機嫌をとる意向などさらさらないこの「序文」は、彼らの反感をあおるだけの結果となった。それでもワーズワースはめげずに、自分の信条を生き生きとうつしだした詩を書きつづけた。
これより前の1798年と99年、ワーズワースと妹ドロシー、コールリジはドイツへおもむいた。そこでワーズワースは、彼の代表的な抒情詩数編を書き、大作「序曲」の執筆を開始した。みずからの生い立ちをかえりみたこの作品は1805年にいちおうの完成をみたが、彼は死ぬまで改稿を重ねた。出版されたのは50年、死の3カ月後であった。この作品はワーズワースの最高傑作と位置づけられている。 イギリスにもどった兄妹は、1799年に、レークディストリクトでもっともうつくしい場所、ウェストモーランドのグラースミア村にあるダブ・コティッジにすみついた。まもなくコールリジとサウジーも近くにすむようになり、この3人は「湖畔詩人」とよばれるようになる。1802年、ワーズワースは幼なじみのメアリー・ハッチンソンと結婚した。彼女のことは、魅惑的な抒情詩「彼女は喜びの幻想だった」にえがかれている。07年には、「詩集」全2巻が出版された。同書には、傑作「幼年時代を追想して不死を知る頌」、自伝的な物語詩「決意と自立」をはじめ、多数の有名なソネットなど、ワーズワースのもっともすぐれた詩の大半が収録されている。
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