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  • コスタリカ共和国政府観光局日本事務所

    不在の場合がございます。御来局の前に必ず電話で日時をご相談下さい。 『コスタリカを知る』 日本・コスタリカ自然保護協会より発行 内容はこちら

  • コスタリカ - Wikipedia

    コスタリカ共和国 、通称 コスタリカ は、 中央アメリカ 南部に位置する 共和制 国家 である。北に ニカラグア 、南東に パナマ と国境を接しており、南は 太平洋 に、北は カリブ海 に面している。首都は サン・ホセ。

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コスタリカ

コスタリカ Costa Rica
百科事典項目
項目構成
1

植民地時代

1502年にコロンブスがカリブ海沿岸部をおとずれ、コスタリカ(「豊かな海岸」の意)と命名する。しかし、先住民がはげしく抵抗したことと、この地方に金銀がとぼしかったことから、スペインの征服はほかの地域よりもおくれた。61年にカバジョンが植民地化に成功すると、62~65年にバスケス・デ・コロナドがおとずれ、カルタゴをはじめとする入植地を中央平原に建設した。現在もこの地域に人口が集中している。

1570年以降はメキシコシティを主都とするヌエバエスパニャ副王領(副王制)のグアテマラ総督領に属したが、スペイン植民地時代を通じてコスタリカはニカラグアの一地域にすぎなかった。その結果、グアテマラシティから遠く資源にもとぼしいコスタリカは、中央アメリカの他地域にくらべてスペインの直接的な干渉や規制にしばられることが少ないまま発展することができた。こうして、あまりめだつことのなかったコスタリカは、独自性の強い地域となった。

入植したヨーロッパ人は先住民を隷属させることもできず、農業や鉱業で利益がみこめる周辺地域のように、アフリカから奴隷をつれてくる余裕もなかった。そのためコスタリカの人々は小さな土地を耕作して自給自足の生活をいとなみ、ラテンアメリカに共通する極端な貧富の格差は生まれなかった。また、中央アメリカの政治経済の中心地にくらべて、行政府の役人や教会組織の幹部もあまりおとずれなかった。したがって、コスタリカはラテンアメリカの歴史の本流からとりのこされたままだった。

18世紀後半、スペインが農産物のもたらす利益を重視するようになったためタバコ栽培が拡大し、このときはじめて為政者たちはコスタリカに注目するようになる。

2

国家の形成

タバコの輸出によってコスタリカ植民地はうるおい、19世紀初頭には中央アメリカの政治や学問の面でコスタリカ人が頭角をあらわすようになった。1821年、メキシコ帝国にくわわるかたちでスペインからの独立を達成し、24~38年は中央アメリカ連邦に参加したが、のちに同連邦を解体させることとなる内紛に関与することはさけた。

ラテンアメリカ各地にみられた自由主義と保守主義の対立はコスタリカにもあらわれ、くわえてカルタゴ、サンホセ、エレディア、アラフエラなどの都市が主導権をあらそったが、サンホセが優位にたった。1838年、連邦の解体にともない共和国となったが、完全な独立は独立宣言が発せられた48年である。しかし、19世紀中葉において特筆すべきことは、コーヒーが主要な輸出産業に成長したことであろう。

保守派のモラによる独裁政権(1849~59)のもとで、コスタリカは、1855年にニカラグアの大統領位をうばったアメリカの冒険家ウィリアム・ウォーカーに対する抵抗運動を率先して展開した。59年の無血クーデタでモラが退陣すると、トマス・グアルディアに代表される自由主義派の統治がつづいた。

1870年代には、鉄道建設をはじめとするさまざまな公共事業に多額の外国資本が投入された。アメリカ人キースのおこしたバナナ・プランテーションは、99年にユナイテッド・フルーツ社となる。同社は沿岸低地帯を開発し、鉄道などの交通・通信網を整備した。しかし、こうしたことによってコスタリカは外国の市場や資本への依存度を高めていった。

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民主主義と安定した政府

19世紀末から20世紀初頭にはコスタリカも政情不安と無縁ではなかったが、軍事的解決ではなく、より秩序だった政治的解決を志向していたといえよう。軍人より教師のほうが多いこと、ほかの中央アメリカ諸国より生活水準が高いことは、コスタリカの人々の誇りだった。

経済の基盤はやはりコーヒーだったが、都市部で勢力をのばしつつあった中産階級は、より近代的な政党を組織して、コーヒー産業を基盤とする少数者の政治支配に挑戦する姿勢をみせた。改革派のPRN(国民共和党)は1936年、コルテス・カストロを擁して政権をかちとり、さらに40年にはカルデロン・グアルディアを大統領に当選させた。

1948年の選挙でPRNは敗北したが、権力の座をゆずらなかったため内乱に発展、次の選挙でフィゲレス・フェレルひきいる新興勢力のPLN(国民解放党)がPRN政権を打倒し、コスタリカの最大政党となった。49年にはPLN政権下で、軍隊の保有を禁止する条文で知られる現行憲法が制定されている。

以後、穏健政策をとる政権がつづき、コスタリカはラテンアメリカ随一の民主国家となった。フィゲレス自身は1954~58年、70~74年の2度にわたって大統領をつとめる。その後もPLNが政権をになったが、78年には野党連合に政権をうばわれた。

1980年代初頭にコスタリカの人口が急増したため、経済は困難に直面した。82年、モンヘ・アルバレスを大統領としてPLNが政権に復帰。このころ、70年代末期からつづく中米紛争がはげしくなり、コスタリカは隣国ニカラグアの反政府親米ゲリラとの関係を深めたため、同国との緊張が高まった。憲法でうたう軍隊保有の禁止は一時ゆらいだが、モンヘ大統領は83年に永世非武装中立宣言を表明した。つづく86年には、PLNのアリアス・サンチェスが大統領に就任。アリアスは中央アメリカ諸国の指導者の合意をとりつけ、同地域の平和と安定を推進すべくつとめた。これがみとめられ、アリアスは87年にノーベル平和賞(ノーベル賞)を受賞している。

1990年2月、元大統領カルデロンの息子カルデロン・フルニエルがキリスト教社会連合党(PUSC)の候補として大統領選に出馬し、勝利した。94年2月の選挙ではフィゲレス元大統領の息子フィゲレス・オルセンが大統領に当選し、PLNが政権にかえりざいたが、98年2月には、キリスト教社会連合党のロドリゲス元経済企画相が与党PLN候補をやぶって大統領に選出され、国会選挙でもキリスト教社会連合党が過半数を制した。ロドリゲス大統領は財政をたてなおすための開放経済政策をすすめ、2000年3月には電力や通信部門の民営化をはかる法案を議会に提出したが、国民の反対論が強く断念した。9月には大統領再選へむけて憲法の改正を提案したが、憲法裁判所は違憲としてしりぞけた。1990年代前半にはじまった経済の停滞は回復傾向をみせた。コスタリカ政府は2001年4月にカナダと、5月に中米5カ国との自由貿易協定(FTA)に調印した。

2002年2月の大統領選挙は接戦となり、与党キリスト教社会連合党のアベル・パチェコ議員が4月の決選投票でPLNのロランド・アラヤ元公共事業運輸相に勝利した。パチェコ大統領は親米路線をとり、03年のイラク戦争では「平和とテロとの紛争では中立ではいられない」としてアメリカを支持。04年5月には、アメリカと他の中米4カ国とともに中米自由貿易協定(CAFTA)に調印、同年8月にはドミニカ共和国も調印した。9月、最高裁判所は、パチェコ政権のイラク戦争支持表明を憲法と国際法の精神に反するとして支持表明の取り消しを命じている。04年後半には、1990年代に大統領に就任したカルデロン、フィゲレス、ロドリゲスら大物政治家による汚職スキャンダルが次々と発覚し、政治不信が広がった。CARICOMとのFTAが2005年5月に国会で批准、発効した。

パチェコ大統領の任期満了にともなう大統領選挙が2006年2月におこなわれ、ノーベル平和賞受賞者でPLNのアリアス元大統領と、市民行動党(PAC)のオットン・ソリス元国家計画・経済政策相の争いとなった。争点はコスタリカだけ批准がすんでいない中米自由貿易協定への加盟問題、すなわち新自由主義をめぐるものとなった。アリアスは加盟推進派で、中米自由貿易協定への加盟は「経済の活性化につながる」と主張、一方ソリスは「経済自由化は農業など国内産業に打撃をあたえ、貧富の差を拡大する」と主張し、まずしい人々を中心に支持をえた。選挙は大接戦となったが、アリアス元大統領が当選、5月に16年ぶりの大統領に就任した。07年10月には中米自由貿易協定加盟の是非を問う国民投票がおこなわれて、批准を支持する票がわずかに不支持をうわまわった。

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