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大和政権成立以後の王族の族長をさし、長く支配の頂点で日本の国家元首としての地位をたもってきた。和訓はスメラミコトで、統治することをあらわす。天皇号は中国思想の影響で、日本では7世紀後半までは大王(おおきみ)とよばれた。
中国には、天皇氏、地皇氏、人皇氏という伝説上の帝王があるが、天皇号はむしろ北半球で不動の星である北極星になぞらえた道教神の考えからきたものであろう。唐の高宗(在位650~683)が自称し、これが天武朝に強く影響して7世紀後半、日本(当時は倭国)の天皇号となったようだ。事実、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から677年(天武6)の干支(→ 十干十二支)である「丁丑(ていちゅう)年」と書かれた木簡と一緒に「天皇」の文字のある木簡が1998年に出土している。 これは「天皇」と書かれたもっとも古い文字資料で、それより早く7世紀初頭の仏像光背銘や「日本書紀」の記事に天皇号がみえるのは、後世の追記や書き換えとする説が現在有力である。天皇は不親政の祭祀(さいし)王で行政の責任はなかったとするとらえ方もあるが、それは平安時代以降の現象で、時代によっても微妙にことなる。 天皇家は、4世紀半ばに大和政権の氏族連合体ができたときトップとしておしたてられたのであろう。5世紀には、倭の五王が中国南朝と通交して国際的な地位をたもち、五王の最後の武(雄略天皇か)は地方豪族を制圧してその族員に人身奉仕をもとめ、国内でも大王の権威を高めた。6世紀には継体天皇の即位をめぐって混乱し、また安閑天皇や宣化天皇の王系と欽明天皇が対立する場面もあった。
さらに大臣や大連たちの台頭もあって、7世紀前半には大臣の蘇我氏の権勢に圧倒される時期もあった。これをたおしたのが、645年(大化元)にはじまる中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)らの大化の改新で、大王を中心とする律令制的中央集権国家にむけての諸改革ののち、壬申の乱(672)に勝利した天武天皇のもとで本格的に天皇と皇族による独裁的な政治がおこなわれるようになった。 しかし豪族や貴族もしだいにまきかえし、藤原不比等などは天皇を保護すると同時に太政官制によって天皇独裁を制した。天皇といえども太政官の決定を拒否するのはむずかしく、詔勅(天皇の命令文)の発布にも太政官の承認が必要だった。それでも律令制度上は天皇に権力が集中していたため、天皇家との姻戚関係が政権担当者の権力の大きな決め手になった。
その中でも藤原氏の北家の一流は天皇家との強い姻戚(外戚)関係をつくりあげ、平安時代の政治権力をほぼ独占した。さらに858年(天安2)には藤原良房が摂政、884年(元慶8)には藤原基経が関白となって、天皇権力を代行した(→ 摂関政治)。天皇は新嘗祭などの宮廷祭祀をおこなうだけの存在となり、行政上の権利はあっても現実的な政治力はうしなった。 しかし、こうした外戚体制がくずれてくると、天皇家は行政機能を回復し、1086年(応徳3)堀河天皇の父である白河上皇が院政をはじめた。上皇が天皇家を代表したのは、天皇にはいぜんとして摂関家が外戚関係をたもち、慣習や制度にとらわれて自由な政務がとれなかったこと、祭祀儀礼の執行があったことなどによるものだろう。院政は近世までつづくが、事実上は鎌倉初期までで力をうしなった。
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