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歴史上、もっとも大きな被害をもたらした伝染病とされるペストのことだが、とくに14世紀半ばからヨーロッパで大流行したペストをさすことが多い。ペストは、腺ペスト、肺ペスト、皮膚ペストの3種にわけられるが、この時期に広く流行したのは腺ペストである。腺ペストに感染すると、股(また)の付け根や脇(わき)の下のリンパ腺がはれあがり、全身に暗紫色の斑点があらわれて、皮膚が黒ずんでみえるので、黒死病とよばれたのである。 ヨーロッパでのペスト流行は、おそくとも6世紀にさかのぼり、その被害は東地中海地域からイタリアやフランスにまで広がっていた。11世紀にも、中近東からヨーロッパにかけて流行したが、この時以降のヨーロッパのペストの伝染には、ペスト菌の保菌動物であるクマネズミの媒介が推定されている。ヨーロッパでは、14世紀の大流行以後も、17世紀に再度の流行をみている。
ヨーロッパ史上最大のペストの流行は1347年にはじまる。この年、コンスタンティノープル(現イスタンブール)からシチリア島、サルデーニャ島をへて、マルセイユ、ベネツィアなど、地中海沿岸地域に伝播(でんぱ)していったペストは、翌48年にはいると、ヨーロッパ内陸部へ拡大していった。アビニョン、フィレンツェで発生したあと、この年の後半にはイングランドでも流行し、49年には北欧やポーランド、51年にはロシアにまで拡大していった。この大流行は53年ごろまでつづくが、その後も70年ごろにひとまず終息をみるまで、間欠的に流行をくりかえした。 1347~70年の大流行によって、ヨーロッパでは、総人口のほぼ3分の1にあたる2500万人から3000万人がうしなわれたといわれる。当時の人々のこうむった心理的影響は大きく、鞭(むち)打ち苦行者やユダヤ人虐殺のような集団的社会パニックがおこったり、日常的な死の存在が「死の舞踏」という芸術上のモチーフを生みだしたりした。
他方、ペストによる人口の激減は、ヨーロッパの中世農村社会の仕組みを根本からくつがえすことになった。ドイツの一部地域などでは、耕地や居住地が放棄される「廃村」現象がみられた。さらに、労働人口の激減の結果、労働者の賃金が上昇したのに対して、食料・穀物需要の減少は農産物価格の下落をひきおこしたので、農村における領主の所領経営(→ 領主制)は危機におちいった。これが14~15世紀のヨーロッパ社会を特徴づける「農業危機」とか「封建領主制の危機」とよばれる事態である。 そこでは、農業労働力を確保するために、農民には有利な条件があたえられるようになり、彼らは隷属身分や封建地代から解放されて、独立自営農民や小作人となった。また多くの封建領主が没落する一方で、小作地をあつめて大規模経営にのりだす富農層や、農村に所領を購入して領主化する都市商人層のもとで、新しい農村社会が形づくられていった。 けれどもペストの人的被害だけがこれらの変動をひきおこした直接の原因だったわけではない。ペスト大流行に先立つ11~13世紀のヨーロッパは、森林などの未開地の開墾が進行し、農業生産力が上昇するとともに、人口が急激に増加しつづけたという大発展時代だった。 しかし14世紀初めの段階では、耕地や農業生産の拡大がすでに限界にきていたようだ。それにもかかわらず人口増加の勢いはとまらず、この時点ですでに肥沃(ひよく)な耕地の不足、人口過剰、栄養状態の悪化、飢饉といった一連の危機のサイクルがはじまっていた。その意味で、ペストの大流行と人口激減は、突然の天災というよりも中世社会の発展が生みだした帰結と考えることもできる。
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