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ルイの文化政策はベルサイユ宮殿に象徴される。1661年に親政を開始すると同時に父の狩場だったベルサイユに宮殿の建設を命じ、建築、造園、室内装飾などに、当時のフランスの最高の専門家を結集した。82年のベルサイユへの王室の移転とともに、政治・行政の首脳もうつりすみ、また多数の宮廷貴族も王と行動をともにした。ベルサイユでは連日、宴会、コンサート、演劇などが開催されたが、これらは単なる娯楽である以上に、芸術の様式などを全国的に統一するための規格整備という意味をもっていた。王宮での宴会で、礼儀作法や食文化、服飾文化などの基準がつくられ、貴族や富裕なブルジョワを通じて全国にひろめられた。 ベルサイユは、生活文化すべての発信基地となった。学術においても中央集権的な保護政策がとられ、科学アカデミーの創設(1666)、天文台の設立(1668)、植物園の整備(1671)などの基盤整備のほか、科学者に対する年金の給付などをさだめた。 宗教についても、ルイは国家の中に多元的な価値基準があることをこのまなかった。アンリ4世が、ユグノーにみとめた信仰上の権利はルイの統治下でしだいに弱められ、1685年には、フォンテーンブローの王令によって全面的にナントの王令は廃止され、ユグノーは弾圧されるようになった。正統カトリックからの逸脱は厳格に監視され、きびしく弾圧されたが、いっぽう、国内のカトリック教会に対しても王への忠誠を強要し、フランス教会をローマから自立させる気配さえしめした。 青年期から壮年期にかけてモンテスパン夫人、マントノン夫人など多くの愛妾をもったことでも知られるが、1683年に王妃マリア・テレサが死亡したあと、マントノン夫人とひそかに結婚した。長命だったルイは、1715年に没するまでに、スペイン王位についたフェリペ5世をのぞいて、子と孫のすべての死にたちあうことになった。ルイの死後、王位は曽孫(ひまご)のルイがルイ15世として継承した。
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