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項目構成
スパルタのきびしい統制に諸ポリスは不満をもち、前395年にアルゴス、コリントス、アテネ、テーベなどが旧来の敵ペルシャの援助をうけてスパルタとたたかった。これはコリントス戦争とよばれ、前387年にスパルタがペルシャと和平をむすんでようやく終結する。しかしこの協定を無視して、スパルタは前371年にテーベに侵攻してやぶれ、その支配はおわった。この後もポリス間の抗争はつづいた。
ギリシャの諸ポリスが争いをくりかえしている間に登場してきたのが、テッサリアの北方に位置するマケドニアである。前359年に即位したマケドニア王フィリッポス2世は、デモステネスら指導的政治家の反対にもかかわらず勢力を拡大した。フィリッポスは、前338年のカイロネイアの戦でアテネとテーベに勝利すると、ギリシャの諸ポリスを支配し、ギリシャ同盟軍とともにペルシャ遠征に着手する。しかし、前336年に暗殺され、その子アレクサンドロス(→ アレクサンドロス大王)は前334年ペルシャ侵攻をはじめた。10年におよぶ東征で、東は北インド、南と西はエジプトまでふくむマケドニア帝国が建設された。帝国の拡大とともに、文明や言語をふくむギリシャの影響力は東方世界に拡散し、固有の文化と融合してヘレニズム文化(→ ヘレニズム時代)が生まれた。
ヘレニズム期は、アレクサンドロスのペルシャ征服からローマの支配下となる前146年までである。この時期、都市国家は政治的に衰退し、ギリシャ全体としても政治的独立が崩壊しはじめた。 前323年のアレクサンドロスの死後、マケドニアの部将たちの間で広大な帝国分割をめぐり抗争がつづいた。この結果シリアにセレウコス朝、エジプトにプトレマイオス王国が樹立される。プトレマイオス王国の首都アレクサンドリアはアレクサンドロスが建設したもので、アテネをしのぐほど学問の中心として発展した。各地でも芸術や学問が発展し、数学のユークリッドやアルキメデス、哲学者のエピクロスやゼノン(キプロスの)、詩人のテオクリトスなどが活躍した。 ギリシャにおいてはアイトリア、アカイアがそれぞれ同盟をつくって有力となった。前215年、ローマはカルタゴ(古代)と同盟をむすんだマケドニアに宣戦し、これに勝利するとギリシャへ進出をしはじめた(→ ローマ史)。前197年にマケドニアを支配下におき、前146年にはアカイアをやぶり同盟を解散させた。その後、ギリシャはローマによって直接支配されることとなる。
ローマの支配下におかれた前146年後の60年間、ギリシャは政治、経済が衰退し、哲学や芸術の地として注目されたにすぎない。前22年ごろ、ローマの初代皇帝アウグストゥスはギリシャ諸市をマケドニアと分離し、ここをアカイアとよばれる属州とした。395年以降ローマ帝国は東西に分裂し、2人の皇帝によって、それぞれ西方ラテン世界と東方ギリシャ世界が統治された。6世紀までにローマ帝国の流れをうけつぐビザンティン帝国(東ローマ帝国)は、全ギリシャとエーゲ海域をふくむ地中海周辺の旧ローマ領を回復し、ヘレニズム文化、中東からのオリエントの影響、キリスト教の3つの要素を混合して発展した。ビザンティン帝国の中にあって、ギリシャ本土は辺地にある属州としてさびれていった。 6~8世紀にはスラブ人が北方からギリシャ本土に民族移動し、トラキアとイリュリアを占拠した。ビザンティン帝国は11世紀後半ころから衰退にむかい、1204年には第4回十字軍が首都コンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を樹立する。ギリシャは十字軍の騎士たちによって分割され、アテネ公国などがおこった。ラテン帝国は61年に滅亡したが、その後の2世紀もの間、アテネ公国はフランス、スペイン、イタリアの諸侯に次々と支配された。
オスマン帝国のスルタンであるメフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを占領し、60年までにはペロポネソスやアッティカに進出した。その後、1669年にはクレタ島を占領して、ギリシャ全域をオスマン帝国内に編入した。19世紀までつづいたトルコの支配は、ギリシャ人にとっては負担の大きいものであった。
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