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    註1 : 2001年 以前の通貨は、 ドラクマ 註2 : ギリシャのユーロ硬貨 ギリシャ共和国 (ギリシャきょうわこく)、通称 ギリシャ は ヨーロッパ の南東、 バルカン半島 最南端部に位置する 共和制 国家 である。半島南部および ペロポネソス半島 に加え エーゲ海 ...

  • 外務省: ギリシャ共和国

    日・ギリシャ首脳会談(概要)(平成17年11月11日) 小泉総理大臣のギリシャ訪問(首脳会談、大統領表敬/昼食会:概要)(平成15年5月6日) 参考資料

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ギリシャ

ギリシャ Greece
百科事典項目
マルチメディア
キバシオオライチョウキバシオオライチョウ
項目構成
6

ナショナリズムの高揚と独立戦争

18世紀後半になると、ギリシャのナショナリズムは高揚し、1770年にギリシャはロシアに支援されてトルコ支配に対して蜂起(ほうき)した。これは失敗におわったが、ナショナリズムはフランス革命により、さらに促進された。この中心となったのが、1814年に結成された秘密結社エテリアである。21年、エテリアの指導者イプシランディスが当時トルコ領だったモルダビアの首都ヤーシに入り、ギリシャの独立を宣言したが、オスマン軍にやぶれた。しかしこの間、ギリシャ本土ではパートレの司教ゲルマノスの指揮による大規模な反乱が勃発(ぼっぱつ)し、本格的な独立戦争へと発展する。

ギリシャ独立軍は、1824年までは善戦したが、この年エジプトがトルコを支援したため劣勢を強いられた。しかし27年、指導者間の不和の解消などにより戦局は好転し、同年、国民議会は新たな共和国憲法を承認し、ロシア系ギリシャ人を初代大統領に選出した。

7

列強の介入

ヨーロッパにとってギリシャは戦略的に重要な位置にあり、エジプトのさらなる地中海進出をおそれたヨーロッパ列強は、1827年にギリシャを支援して軍事介入した。29年にアドリアノープル協約が締結されてロシア・トルコ戦争が終結し、敗北したトルコは列強がギリシャのために要求する措置をすべて承認した。30年、フランス、イギリス、ロシアはロンドン議定書をかわし、ギリシャ憲法を無効とし、3国共同の保護下でギリシャを独立国とした。王国の領土はギリシャ人の期待に反し、国境の北限がコリントス湾のわずか北にすぎなかった。

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近代のギリシャ

独立戦争が終結しても、党派間の抗争はやまなかった。ギリシャは、復活したギリシャの国土の縮小に頑として抵抗した。内戦後の1832年、バイエルンのオソンがヨーロッパ列強の要請にしたがって王位をひきうけ、ギリシャ王オソン1世として即位する。しかし王が若く、実質的にはバイエルンから派遣された役人が憲法を拒否してきびしい中央集権的官僚政治を実施したため、ギリシャ人の怒りは43年の無血革命で頂点に達した。

この革命後オソンは憲法の承認を強いられた。しかし1862年、ギリシャ軍の一部がクーデタをおこし、列強の承認をえて国民議会はオソンを退位させた。王位をついだのはデンマーク王クリスティアン9世の2男で、63年にゲオルギオス1世として即位した。このときイギリスは、15年以来イギリス領だったイオニア諸島をギリシャに割譲している。翌年には、より民主的な新憲法が制定され、成年男子の普通選挙権がみとめられ、一院制議会がおかれた。

1890年代におけるギリシャの対外政策の主軸は、王国の領土拡大におかれた。紆余曲折(うよきょくせつ)をへながらも、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ諸国が関与した戦争(バルカン戦争)によって、最終的には1912年と翌13年にトルコからクレタ島とマルマラ海以西の全領土(イスタンブールなどをのぞく)をえ、ブルガリアからはテッサロニキとカバラをふくむマケドニアの一部を領土に編入する。こうしてギリシャの領土と人口は、ほぼ2倍にふくれあがった。

9

第1次世界大戦

1914年、第1次世界大戦が勃発するとギリシャは中立を宣言したが、厳格な中立をつらぬくのは不可能であった。親ドイツ派の王コンスタンティノス1世と、イギリス、フランスなどの連合国側への参加をのぞむ首相ベニゼーロスが対立した。17年、連合国側はコンスタンティノスを退位させて彼の2男アレクサンドロスを新王とし、ギリシャは連合国側で参戦する。戦後の領土処理において、ギリシャはブルガリアからトラキア西部を、トルコからトラキア東部を、そして多数のエーゲ海諸島を獲得したが、さらにスミュルナ(現イズミル)をも自国領と主張した。

1919年、ギリシャ軍はスミュルナに上陸し、トルコの住民および軍とたたかったが、イギリスやフランスの支持をえられず失敗におわった。23年のローザンヌ条約によりスミュルナはトルコに返還され、小アジアに居住する100万以上のギリシャ人がギリシャにひきあげ、同じくギリシャ居住のトルコ人はギリシャをさることとなった。

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共和制の時代

1922年にゲオルギオス2世が即位したが、ギリシャの経済はスミュルナでの敗戦により疲弊し、反王制主義者、トルコからの難民、軍部らは王制反対運動を展開した。23年、ゲオルギオス2世はギリシャをさり、翌24年、国民投票でギリシャは共和制となった。27年に共和国憲法が公布されたが、政治的には不安定な時期がつづく。大統領クンドゥリオティスに任命されて首相となったベニゼーロスは、国内外におけるギリシャの安定のために尽力した。28年にはイタリアと、翌年にはユーゴスラビアと友好協定を締結、30年にはトルコと条約を批准した。しかし、世界恐慌(恐慌)によってギリシャの輸出品の需要が低下したため、32年には深刻な経済危機におちいり、政情はますます悪化した。

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