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古代ローマ人が西ヨーロッパ一帯につけた名称。西は大西洋、南はピレネー山脈と地中海に接し、北の境界は英仏海峡、東はアルプスとライン川にかこまれた地域。ローマ人がガリとよんだケルト人がすんでいた。彼らがはじめて歴史に登場したのは、前600年ごろ、小アジアの都市フォカイアのギリシャ人が地中海沿岸にマッシリア(現マルセイユ)植民市をきずいたときのことである。のちにギリシャ人はこの地域をガラティアとよび、ローマ時代にガリアとよばれるようになった。
ローマ人は、ガリアを2つの地域にわけて考えていた。ガリア・キサルピナ(現イタリア北部)とガリア・トランサルピナである。前者はローマからみて「アルプスのこちら側のガリア」を意味し、後者は「アルプスのむこう側のガリア」である。 カエサルは、「ガリア戦記」の中で、ガリア・トランサルピナについてくわしくのべている。彼は多くの部族がすむこの地方を、地域的にわかれている3住民集団、すなわちベルガエ人、アクイタニア人、そしてケルタエと自称していたガリア人の定住する3州にわけた。ベルガエ人は北部に定住し、南の境界はセクアナ(現セーヌ)川とマトロナ(現マルヌ)川にあたる。アクイタニア人は南部のガルムナ(現ガロンヌ)川とピレネー山脈の間にすみついていた。ガリア人は、これら2つの州の中間の地域に定住していた。 カエサルによれば、これらの3州は言語・習慣・法律を異にしていた。彼の報告は、ガリア地方のすべての部族について記しているわけではないが、おおよそ正しい。しかし、アクイタニア人が、言語の面では共通性の多いベルガエ人とガリア人とは民族学的にまったくことなることには気づかなかった。ベルガエ人とガリア人は、長身で金髪・色白、集団行動をこのみ、大軍をなして戦闘にはいる習性をもつが、アクイタニア人は対照的に、色黒で孤立しており、小軍団でたたかうことをこのんだ。
ローマ人はしだいにガリア・キサルピナ全域に進出するようになり、多くの植民市をもうけた。前49年にカエサルは、これらの植民市の住民にローマ市民権をあたえ、この地域から、詩人のウェルギリウスやカトゥルス、歴史家のリウィウス、雄弁家で著述家のプリニウス(大)とプリニウス(小)らがでた。 やがてローマ人はアルプスをこえて、征服地を拡大し、ピレネー山脈に達した。アルプスとピレネー山脈の間の領地は、ガリア・プロウィンキア(属州ガリア)とよばれるローマの属州になり、地中海沿岸の都市ナルボ(ナルボンヌ)が首都にさだめられた。カエサルの遠征は、前51年のガリア・トランサルピナ全域の征服によっておわり、新しい属州アクイタニアがきずかれた。 前27年にローマ皇帝アウグストゥスは、ガリアを4つの行政区にわけた。アルプスからセベンヌ山地にいたるガリア・ナルボネンシス。カエサルのきずいた元のアクイタニアに14部族をくみいれ、リゲル(現ロワール)川を北の境界とするアクイタニア。ロワール川、セーヌ川、ソーヌ川にかこまれた地域からなる、ルグドゥヌム(現リヨン)にちなんで名づけられたガリア・ルグドゥネンシス。北海を北の境界とする、セーヌ川とライン川にはさまれたガリア・ベルギカである。この行政組織は、後4世紀に皇帝ディオクレティアヌスが帝国の再編成をはかって2つの管区にまとめるまで存続した。 1世紀中葉、皇帝クラウディウスは、ガリアのローマ化を盛んにすすめた。以後帝政ローマの時代に、ガリアは「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」のもとで、ローマと親密な関係をたもって繁栄した。 4世紀末に西と東にわかれたローマ帝国は、ゲルマン人の侵入もあって西ローマ帝国が5世紀に滅亡、ガリアはゴート族、フランク族、フン族とたてつづけに侵入をうけて、ローマの支配は徐々にうしなわれていった。そして、486年にフランク王クロービスが、ガリア地方最後のローマの拠点を征服して、メロビング朝の基礎をきずき、中世ヨーロッパの幕が切っておとされた。
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