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ギリシャ中南部にある同国の首都で最大の都市。古代ギリシャ語ではアテナイAthenaeという。サロニコス湾に面するアッティカ平野にあり、パルネス山、ペンテリコン山、ヒュメットス山、アイガレオス山といった山々にかこまれ、西にキフィソス川、東にイリソス川がながれる。南西約8kmに外港ピレウス(ピレエフス)があり、他の周辺地域とともに大アテネを形成している。市域の中心にアクロポリスの丘、北東部にリュカベットス山がそびえ、パルテノン神殿跡、聖イヨルイヨス礼拝堂などが遠望できる。アテネの人口は74万5514人(2001年)。
ギリシャの経済活動はアテネおよびその周辺に集中している。おもな産業は織物、アルコール飲料、石鹸、製粉、化学、製紙、皮革、陶器などで、出版、金融、観光も重要な位置を占めている。またアテネは国際航空路の拠点ともなっている。 アクロポリスの北東方にあるシンダグマ広場が現代アテネの中心部で、広場の東側には国会議事堂、北側には有名なグランド・ブルターニュ・ホテルがある。現代のアテネの大部分は19世紀中ごろ以降につくられたものだが、古代の遺跡も現存している。アクロポリスの丘の平坦な頂上からふもとにかけては、前5世紀に建立されたパルテノン神殿をはじめ、アテナ・ニケ神殿、ヘローデス・アティコス音楽堂、ディオニュソス劇場などの遺跡がある。 高等教育機関としては、国立カポディストリアス・アテネ大学(1837年創立)、国立アテネ工科大学(1836)などがある。国立考古学博物館、ビザンティン博物館、アクロポリス博物館、ベナキ博物館など多くの博物館もあり、そのコレクションも膨大である。
アクロポリスには新石器時代以降、人が居住していた。前1400年にはすでにミュケナイ、ティリュンスなどの青銅器時代後期のものと同じ様式の城塞がきずかれていた。この時代から、ドリス人侵入後の「暗黒時代」(前1200~前900)にかけてアテネはアッティカ地方に点在する小王国のひとつにすぎなかった。
前9世紀中ごろ、アテネはピレウス港をふくむ周辺地域を領土にくわえた。政治形態は王政から貴族政に移行したが、民衆にはほとんど参政権がなかった。実権をにぎっていたのは、長老貴族からなる評議会のアレオパゴス会議で、彼らは戦争、宗教、司法の遂行の任にあたる3人(のちに9人)のアルコン(公職者)を指名した。この貴族支配への不満が高まった前632年、キュロンは貴族と市民との対立を利用して、公式には政権をみとめられない者が独裁者として実権をにぎる僭主政樹立をこころみたが、失敗におわった。その後も治安が安定しなかったため、前621年、ドラコンは成文法を制定し、治安回復をはかった。前594年、あらゆる階層の人々の一致した意見でソロンをアルコンに任命した。彼は評議会(ブーレー)、民会(エクレシア)、法廷を設立するいっぽう、交易の促進、貨幣の改鋳、外国人技術者の招聘(しょうへい)などの改革を実施した。しかしながらその改革は部分的にしか成功しなかった。 前560年、ペイシストラトスが僭主政を樹立してアテネの支配者となった。彼はソロンの時代に設立されたアゴラ(集会場・市場)を拡充し、またポリスの守護神、アテナ女神をまつる神殿をアクロポリスに建立した。また4年おきにおこなわれるパンアテナイア祭のような公的な行事を後援した。前560~前510年にこの僭主とその息子たちによりさまざまな公共事業が実施された。 前509年、クレイステネスが海岸党をひきいて僭主政を打倒、民主政を樹立した。彼は支持基盤が市街部におかれるように、従来の四部族にかわる十部族制を導入して、都市国家の体制をととのえた。民会が実権をもち、アクロポリスの西方のプニュクスの丘で開催されるようになった。
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