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項目構成
前480年、アテネはペルシャ軍の略奪をうけ、町の大部分が破壊された。指導者のテミストクレスはサラミスでペルシャ軍を撃破したのち、アテネとピレウスの周囲に城壁をきずき復興に着手した。彼は同時にアテネとピレウスをつなぐ城壁の建設もはじめ、この事業は前450年代にペリクレスにうけつがれた。ペリクレスは他のいかなる民主政の指導者にもましてアテネを強大なポリスにした。彼はパルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿、エレクテイオン神殿その他の大建築物の建設に公共資金をもちい、他方、世界じゅうからめずらしい品物を輸入してアゴラを盛んにした。 前477年、対ペルシャの軍事同盟であるデロス同盟の盟主となったアテネは、スパルタとならんでギリシャ世界で大きな影響力をおよぼした。アテネの法廷ではエーゲ海全域の訴訟が審議された。また文化も花開き、アクロポリスの麓のディオニュソス劇場では悲劇や喜劇が上演され、ペリクレスは多くの知識人と交友関係をもった。アテネはその民主政とかがやかしい生活習慣で「ギリシャの学舎(まなびや)」となった。絶頂期には人口は約20万をかぞえ、うち5万人が民会に参加できる市民資格をもつ成人男子だった。 栄光のアテネは、ペロポネソス戦争(前431~前404年)でスパルタに敗北したのち、急速に衰退へとむかった。しかし、哲学はすばらしい展開をみせ、前4世紀には、ソクラテスにつづいてプラトンが哲学の学校としてアカデメイアを、アリストテレスがリュケイオンを開いた。またデモステネス、イソクラテスなどにより弁論がまなぶべき1つの技術となった。
前338年にカイロネイアの戦にやぶれたのち、アテネは事実上マケドニアの支配下に入ったが、その後も重要な文化の中心地でありつづけた。前146年にローマが支配するようになるが、おおむねローマ人との関係は良好だった。しかし前86年には、ローマ人がアテネを略奪し、多くのすばらしい建造物や彫像、彫刻などを破壊した。それでも古代末期まではなおもギリシャ・ローマ世界における学芸の中心地としての地位を維持した。3世紀にはゴート族が略奪をおこなった。529年には、キリスト教徒のユスティニアヌス1世が異教のものとしてアカデメイアの閉鎖を命じた。このことにより、古典文化の伝統にピリオドがうたれた。 ローマ帝国の東西分裂後はビザンティン帝国の支配下におかれたが、アテネは文化的に沈滞した。多くのすぐれた芸術作品がコンスタンティノープル(現イスタンブール)にもちさられ、神殿は教会となった。まれに皇帝がこの都市を訪問することもあったが、ほとんど無視される存在であった。第4回十字軍が1204年にコンスタンティノープルを占領したのち、アテネはフランスのある封建諸侯の領地となった。1311年にカタルニャ人のものとなるが、14世紀末にフィレンツェが彼らを撃退し、支配権を確立した。 1458年、オスマン帝国がアテネを支配下におき、アテナ女神をまつったパルテノン神殿はイスラム教のモスクにされた。オスマン帝国の支配下におかれても都市を運営していたのはギリシャ人で、ほかにトルコ人、スラブ人がいた。1687年、ベネツィア軍のはなった砲弾によりパルテノン神殿は修復不能なほどに破壊された。
ギリシャ解放戦争(1821~33年)によりアテネもオスマン帝国支配から解放され、1834年、独立を回復したギリシャの首都となった。オソン1世の治世下(1832~62年)にエドゥアルド・シャウベルトを代表とするドイツ人建築家の手により町の大部分が再建された。主として古代遺跡で有名な観光地だったが、20世紀に入ってからはヨーロッパにおける貿易や産業の重要な拠点となっている。無計画な都市の拡大にともなう大気汚染という現代の都市問題にも直面している。
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