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エーゲ文明後期の前1600年ごろから前1200年ごろにさかえた文明で、後期青銅器時代にあたる。前2000年ごろバルカン半島に南下してきたインド・ヨーロッパ系の人々(→ インド・ヨーロッパ語族)は、先住のミノス人(クレタ人)のミノス文明を目の当たりにして、前1600年ごろからこの文明を吸収しつつ独自の文明を発展させた。 ミュケナイ文明という呼び名は、この文明の中心のひとつミュケナイ(ミケーネ)にちなんでいる。ミュケナイは、ギリシャ本土のペロポネソス半島北東部アルゴリス地方に位置し、シュリーマンの発掘によってその存在が知られることになった。ミュケナイ文明の重要な遺跡としては、ほかにティリュンスやピュロスなどが知られる。 ミュケナイ人は線文字Bと称される文字を使用していた。1952年にベントリスとチャドウィックによって線文字Bが解読されると、これが初期のギリシャ語であることから、ミュケナイ文明の担い手はギリシャ人であったことが明らかになった。
前1600年ごろまでに、ミュケナイ社会には階級分化が生じた。墓から出土した多数の黄金製品から富裕階級がいたことが知られる。ミュケナイ人は、海上交易をとおしてミノス文明の影響を強くうけたが、彼らよりもはるかに好戦的だった。埋葬品の中には青銅刀剣類などの武器がふくまれ、壁画には狩りや戦闘のようすがえがかれている。このことは、彼らの社会が動乱続きであったことをしめしている。この時期のエーゲ文明の中心はクレタ島のミノス文明であり、エーゲ海の海上権もミノス人が掌握していた。
前1400年ごろ、ミノス人の宮殿が次々と破壊され、ミノス文明が滅亡した。これはミュケナイ人のクレタ島侵入によるとされる。そして、ミュケナイ文明はギリシャ本土からクレタ島にも広がり、エーゲ文明の中心として繁栄した。ただ一つ破壊をまぬがれたクノッソス宮殿の主も、ミュケナイ人がとってかわった。ミュケナイ人がミノス人の宮殿の破壊にかかわっていたという確実な史料はないが、宮殿の破壊によって繁栄のきっかけをえたことは確かである。 このころから、ミュケナイ人の諸王国はギリシャ本土にも宮殿の建設をはじめた。ミュケナイ、ピュロス、ティリュンス、テーベに代表される諸宮殿である。前14世紀にクノッソス宮殿が破壊されると、これらの宮殿を中心にしてミュケナイ文明は最盛期をむかえ、ミュケナイ人の交易圏ははるかに大きくなり、その影響は小アジアにまでおよんだ。 宮殿の規模や様式に違いがみられるものの、その機能はミノス人の宮殿とかわらなかった。宮殿は行政や宗教儀礼の中心であり、また食糧貯蔵庫や工房であった。そして、宮殿には王国の財政を記録した大量の粘土板文書が保管されていた。 線文字Bで記述されたこれらの粘土板文書から、この時代の王国のようすをうかがうことができる。それによれば、ミュケナイ人の王はワナカとよばれており、王国の構造はオリエントの専制国家に類似していた。王は官僚を組織し、地方村落は王に対して貢納の義務をおっていた。 ホメロスの「イーリアス」および「オデュッセイア」に登場する英雄の活躍した時代は、ほぼこの時期にあたる。アガメムノンはミュケナイの王であった。 前13世紀後半ごろからミュケナイ社会は衰退をはじめ、前1200年ごろ宮殿が次々に炎上して文明は終焉(しゅうえん)をむかえる。ミュケナイ文明の崩壊の原因としては「海の民」の襲来説が有力だったが、近年はミュケナイ社会内部に原因をもとめる説、気候変動説などもとなえられ、その真相は明らかでない。
ミュケナイ諸王国の崩壊後、生きのこった人々は新しい定住地をもとめて移住した。一時的に社会の再建がこころみられたものの、宮殿の再建はおこなわれず、まもなくかつての中心地はすてられ、人々は小さな集落に定住した。人口は減少し、文化水準も低下した。墓も粗末になり、副葬品も貧弱になった。ギリシャ史で「暗黒時代」ともよばれるこの時期は、しかしながら、新しいポリス(→ 都市国家)社会の時代への胎動期でもあった。
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