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独立後のウクライナがかかえる問題の多くはロシアとの関係に起因し、とくにロシア系住民が多数を占めるクリミアをめぐり政治的緊張が高まった。 ウクライナが独立した直後、クリミアではウクライナからの独立をもとめるロシア主導の運動がおこり、クリミアをウクライナの州から自治共和国に格上げすることに成功、独立を宣言したが、1992年5月にこの宣言は無効となった。しかし、同年ロシア議会が54年のウクライナへのクリミア移譲を無効とする決議を採択したため、ウクライナとロシアの論争となった。94年1月に独立派のメシコフがクリミアの大統領に当選すると、クリミアとウクライナ中央政府の対立が先鋭化した。95年にはクリミア側はクリミア独立、ロシアとの再統合をめざして住民投票を強行しようとし、中央政府側はクリミアの大統領解任、議会の解散を指令し、緊張がつづいた。 また、ウクライナ東部のドネチク、ルハンシクでもウクライナからの分離主義的運動が活発化した。ロシア系住民が多数を占めるこの両地方では、1994年3月にロシア語を公用語にする住民投票が可決され、独立国家共同体(CIS)への加盟が主張された。 ウクライナの独立後、ウクライナとロシアはクリミア半島のセバストポリ港を基地とする黒海艦隊の帰属をめぐっても対立した。1995年までは共同管轄とし、その後分割することで92年にいったん合意に達したが、その後も緊張はつづいた。この問題では黒海艦隊を分割して、ロシア黒海艦隊とウクライナ海軍を創設、ロシア黒海艦隊がひきつづきセバストポリ港を使用することで、95年6月に両国は合意した。また、クラフチュク大統領はウクライナに存在する核兵器をロシアに移送することにも合意した。94年2月、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)と東欧諸国などとの間に安全保障面での協力拡大をめざした「平和のためのパートナーシップ」に加盟することを決定した。 経済の面でも、独立後のウクライナはロシアとの関係でゆれうごいた。ソビエト連邦(ソ連)時代、石油や天然ガスなどは連邦に依存しながらも、石炭や鉄鉱石にめぐまれ工業も発展していたウクライナの国民には、その成果を連邦にすいあげられていたという意識が強かった。ソ連時代にウクライナ共産党の幹部で、独立後初代大統領となったクラフチェクは、独立後の混乱と経済危機の原因はロシアから生じており、ルーブル圏から離脱すれば経済危機は解決できると主張した。 しかし、ソ連時代の社会主義的分業からいきなり自立経済に切りかえることは容易でなかった。インフレは昂進(こうしん)し、またソ連時代には連邦内で安価に提供されていた石油が、ロシアになって国際価格に切りかえられたため債務が急増することになった。工業製品も国際競争にたえるまでにはきたえられていなかった。
1994年7月におこなわれた大統領選挙は、クラフチェク大統領と、そのもとで首相であったクチマの争いとなり、52%の票を獲得してクチマが当選した。クチマ大統領は、ロシアとの経済的統合を再強化して安定をはかりつつ、経済改革を断行した。95年3月には、経済改革に反対するマソル首相を解任し、議会とも「憲法協定」をむすんで、より広範な大統領権限を獲得、経済改革を遂行する準備をととのえた。 そして、IMF(国際通貨基金)と協調して国営企業の民営化や減税による民間企業の育成、為替レートの一元化などの改革をおしすすめ、急激なインフレを収束させた。1996年6月に新憲法が導入され、大統領と議会の対立も収束し、政治的にも安定にむかった。また97年5月にはNATO(北大西洋条約機構)との間で、ロシアに準じるかたちで協力文書に調印、ついで、ロシアと友好協力条約を締結した。この友好協力条約により、ロシアはクリミア半島はウクライナ領であることを確認し、95年の黒海艦隊分割合意とあわせてクリミア問題は決着をみた。 1998年3月の最高会議選挙では共産党がひきつづき第1党となったが、99年10~11月におこなわれた大統領選挙では、クチマが共産党の候補を決選投票でやぶって再選された。クチマ大統領は、経済改革をさらにすすめるために中央銀行総裁であったユシチェンコを首相に指名、ユシチェンコはヨーロッパとの関係拡大による市場経済の推進をはかった。 2000年3月にプーチンがロシア大統領に就任すると、クチマ大統領は急速に親ロシアに傾斜し、国内においては強権的な政治運営がめだつようになっていった。国民からはクチマ大統領に対する批判が高まったが、親ロシア派が多い最高会議は、01年4月にEU(ヨーロッパ連合)との関係強化をはかるユシチェンコ内閣への不信任決議案を可決した。大統領は親ロシアのキナフ第1副首相を首相に指名、最高会議は与党の賛成多数で承認した。02年3月末の議会選挙では、独立後はじめて共産党が第3党へ後退、01年にクチマ大統領支持派が結成した「統一ウクライナのために」と、それに対抗してユシチェンコらが結成した「われらのウクライナ」が二大勢力となった。
2期目のクチマ大統領は、政府に批判的な報道機関や野党を弾圧して、いっそう強権的姿勢を強め、国民の批判もさらに高まった。クチマ大統領は批判そらしをねらって2002年11月にキナフ内閣を総辞職させてドネチカ州知事のヤヌコビッチを首相に任命した。 2004年10月におこなわれた大統領選挙は、こうした強権的で親ロシアのクチマ大統領をささえてきたヤヌコビッチ首相と、政治の民主化やEU(ヨーロッパ連合)、NATO(北大西洋条約機構)への接近を主張するユシチェンコの対決となった。この選挙では、クチマ政権がアメリカとの関係改善をもくろんでイラクに派遣した兵士の撤退も争点となり、ユシチェンコは即時撤退を主張した。 この選挙でユシチェンコはわずかの差でヤヌコビッチをおさえたが、当選に必要な投票の過半数にはおよばず、11月に決選投票がおこなわれた。決選投票では政権側が大規模な不正をおこない、11月21日の投票日から野党陣営は街頭抗議行動をおこした。以後、陣営が抗議拠点としたキエフの独立広場はユシチェンコ派のオレンジ色の旗でうめつくされることになったが、軍隊は介入しなかった。 中央選管は11月24日にヤヌコビッチを当選としたが、野党陣営はみとめず、「救国委員会」を創設して臨時政府樹立を宣言、大統領府や首相府を封鎖した。選挙結果に懸念を表明していた欧米諸国は、EUから代表を派遣して与野党代表による円卓会議を組織、そこで再選挙の流れがさだまり、最高会議も27日に決選投票の無効とやり直しを決議した。しかし、決選投票のやり直しか選挙そのもののやり直しかをめぐる対立はとけなかった。 膠着(こうちゃく)した事態の打開に決定的な役割をはたしたのは、12月3日の最高裁判所決定であった。最高裁決定は、決選投票で大規模な不正や捏造(ねつぞう)、法律違反があったと認定、中央選管の決定を無効として決選投票のやり直しを勧告した。これをうけて最高会議は、大統領権限を縮小する憲法の改正、また大統領選挙法の改正をおこなって、12月26日に決選投票の再投票がおこなわれた。 選挙結果は、ユシチェンコが得票率52%、ヤヌコビッチが44%で、ユシチェンコの当選が決定した。この間、ロシアのプーチン大統領は、欧米諸国の対応を政治介入として批判し、ヤヌコビッチを支援したが、親ロシア政権はくずれた。しかし、石炭など基幹産業のあるウクライナ東・南部はロシア系住民が多く、親ヨーロッパの首都キエフや西部住民との対立は深刻で、この間、東・南部諸州では独立をめざす動きもみられた。 ユシチェンコ政権には、経済的依存が強いロシアとの関係を修復しつつ、EUとの関係強化もはかって独自の経済基盤を強化するというむずかしい課題がかせられることになった。
2005年1月にユシチェンコが大統領に就任、2月には、ティモシェンコを首相とする新内閣が発足した。ティモシェンコは、オレンジ革命をユシチェンコとともにひきいた立役者で、「ウクライナのジャンヌ・ダルク」とも称され、国民の人気も高かった。ユシチェンコ政権への期待は大きかったが、クチマ前政権にくらべて経済成長率はおちこみ、物価も上昇、経済運営をめぐって政権内で亀裂が深まっていった。05年9月、ユシチェンコ大統領はティモシェンコ首相ら全閣僚を解任、自身に近いドニエプロペトロフスク州知事のエハヌロフを首相に任命した。 ロシアは、ウクライナに対して天然ガスを安価で供給していたが、他のヨーロッパ諸国に対する価格並みにあげることを通告した。約5倍となる価格にユシチェンコ政権は抵抗し、2006年1月、約2倍の価格とすることと、他のヨーロッパ諸国向けの輸出ルートでもあるウクライナ領内のガスパイプラインの管理を、両国共同の合弁会社にうつすことでおりあった。 こうした中でおこなわれた2006年3月26日の議会選挙では、ヤヌコビッチ元首相がひきいる親ロシアの地域党が第1党となり、ティモシェンコ前首相ひきいるティモシェンコ連合が第2党となった。ユシチェンコ大統領の「われらのウクライナ」は第3党にしずんだ。過半数を制する勢力はなく、各派いりみだれての連立合戦がはじまった。当初、オレンジ革命をともにたたかった「われらのウクライナ」とティモシェンコ連合に、中立的な社会党をくわえた連立が合意されたが、地域党と共産党のまきかえしで社会党をふくむ新多数派が形成され、事態は混迷した。 結局、4カ月余におよぶ混乱の末、2006年8月4日に、地域党と「われらのウクライナ」、社会党、共産党からなる連立政権が誕生、首相に地域党党首のヤヌコビッチ元首相が選出された。親ロシア派と親欧米派の大連立により、国政の基本方針は、EU(ヨーロッパ連合)加盟をめざす一方、ロシアなどとの統一経済圏にもくわわることになった。
2006年10月、「われらのウクライナ」は、政権発足からわずか2カ月で連立内閣から自党の閣僚をひきあげて野党に転じた。大統領の管轄領域である外交にのりだしたヤヌコビッチ首相が9月にNATO(北大西洋条約機構)事務総長と会談し、連立合意の外交方針に反して「ウクライナのNATO加盟は時期尚早」との見解をしめしたことが引き金となった。連立離脱後も、ユシチェンコ大統領が指名した外相と国防相は閣内にとどまっていたが、12月、議会は、親欧米外交をすすめてきたタラシュク外相と、大統領派の内相の解任を可決した。ユシチェンコは、大統領が指名権をもつ外相の解任決議に反発してタラシュクを再指名したが、外相の閣議出席が拒否されるなど政局が混迷し、翌07年1月末にタラシュクは辞任した。 大統領権限の大幅な削減をねらう首相派が議会支配を強める中で、2007年4月、ユシチェンコ大統領は議会解散と選挙の早期実施を命じた。改憲を阻止したい大統領にとって、議会解散と再選挙は勢力バランスをたてなおすための切り札だったが、首相派は大統領令には法的根拠がないと主張して議会解散を拒否し、政局は混迷を深める。一時は内務省部隊の指揮権をめぐる争いまでおこったが、5月末、大統領の譲歩によって、繰り上げ議会選挙の時期を9月とする合意が成立し、泥沼化していた政治危機はようやく収束にむかった。 2007年9月末におこなわれた議会選挙では、前回選挙で第2党に躍進した野党のティモシェンコ連合がさらに勢いをのばした。政治混乱で威信を低下させたユシチェンコの「われらのウクライナ」は議席をへらしたが、両党あわせると過半数をわずかながらこえることから、親欧米派の勝利となった。10月に両党は、連立内閣をつくることで合意し、12月、ティモシェンコの首相復帰は過半数ぎりぎりで議会に承認された。しかし、与野党の勢力は伯仲しており、次期大統領の座をめぐるティモシェンコとユシチェンコのライバル意識もみえかくれしている。復活した親欧米政権の政局運営については困難も予想される。
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