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  • 新古典主義美術

    [新古典主義美術] 新 古典主義とは、一言で言うと古典古代の美術を 自分たちの美術の規範にしようという運動であった。 本格化した古代志向の底には、 ロココ美術の享楽(きょうらく)主義的な内容と

  • 新古典主義 - Wikipedia

    新古典主義 (しんこてんしゅぎ)とは、 18世紀 後半以降、 フランス で見られた 古代ギリシア ・ ローマ ( 古典古代 )への回帰運動を ... それまでの ロココ 美術があまりに甘美な装飾様式で、絵画等の題材が貴族主義的、退廃的と揶揄され、ギリシア・ローマの ...

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    ギリシャ・ローマ美術を規範として、18世紀中ごろから19世紀初めにかけてヨーロッパと北アメリカで生みだされた芸術様式。たんなる古代の復興にとどまらず、当時の政治情況とも関連していた。はじめ、新古典主義者たちはロココ様式の官能性や通俗性を ...

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新古典主義(美術)

新古典主義 しんこてんしゅぎ Neoclassicism
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

ギリシャ・ローマ美術を規範として、18世紀中ごろから19世紀初めにかけてヨーロッパと北アメリカで生みだされた芸術様式。たんなる古代の復興にとどまらず、当時の政治情況とも関連していた。はじめ、新古典主義者たちはロココ様式の官能性や通俗性を、論理的で厳粛な、啓蒙的性格をもつ様式におきかえようとした。その後、革命運動をへてフランスとアメリカに共和国が樹立されると、古代ギリシャや共和政時代のローマ民主主義との結び付きから、新政府の指導者たちは公式の美術として新古典主義を採用した。しかしナポレオンがフランスで権力の座につくと、この様式はナポレオンの宣伝効果をあげるためのものに変質する。またロマン主義の台頭にともない、個人的な表現に対する好みが固定的な理想的価値観にもとづく美術にとってかわることになった。

II

考古学からの刺激

この様式は、1738年のヘルクラネウム、48年のポンペイという2つの古代都市遺跡の発掘や、英国人の考古学者スチュアートとレベットの共著「アテネの古代遺物」の出版(1762)、1806年にエルギン・マーブルズがロンドンに到着したことなどによって発達した。ドイツ人の美術史家ウィンケルマンが、ギリシャ・ローマ美術の「高貴なる単純さと偉大なる静けさ」を賞賛し、芸術家たちにその理想的形態を「模倣」するよう提唱すると、彼の意見は熱狂的にうけいれられた。1760年代のローマでは彼の周りに芸術家たちの国際的なサークルができあがる。

III

建築

ヘルクラネウムやポンペイ、アテネが発掘されるまで、古代ローマ建築は、おもにイタリアの芸術家ピラネージがえがいた銅版画によってしか知られていなかった。しかし新しい考古学的発見は建築用語そのものをふやし、建築家たちもギリシャ・ローマにもとづく建築を提唱しはじめた。

新古典主義様式をイギリスに紹介したのは、スコットランドの建築家でデザイナーのロバート・アダムである。彼は1750年代と60年代に風格のあるイギリスの邸宅の手直しをおこない、アダム様式を確立する。古代のモティーフを採用していても、表面の装飾性や比例の洗練を考慮している点でなおロココ的な様式である。

いっぽうフランスでは、ルドゥーがパリの市門(1785~89)などを設計した。これは新古典主義建築の初期の典型である。そして1804年にナポレオンが帝位につくと、その宮廷建築家だったペルシエとフォンテーヌが、帝政期ローマ建築の威圧的な特徴をとりいれて、パリをヨーロッパ第1の首都に変貌させたいというナポレオンの希望を実現しようとした。このアンピール(皇帝)様式は、ペルシエとフォンテーヌが設計し、06年に着工されたルーブル宮のカルーゼルの凱旋門や、シャルグランが設計し同年着手されたシャンゼリゼ大通りなどの大事業に代表される。それらはもはや、ルドゥーの想像力豊かな作品からは遠くかけはなれたものであった。

ギリシャに影響されたイギリスの建築としては、ソーンによるイングランド銀行のロトンダ(1796)や、スマークによる大英博物館柱廊(1823~47)などがある。こうした「グリーク・リバイバル(ギリシャ復興)様式」は「リージェンシー様式」へと変化する。代表的な例は、ナッシュがデザインしたロンドンのリージェント・ストリートのファサード(着工1812)である。そのほかには、ドイツ人のシンケルによるベルリンの王立劇場(1819~21)などが新古典主義建築の例としてあげられる。

いっぽうアメリカでは、新古典主義の一種である「フェデラル様式」が1780~1820年に流行した。トーマス・ジェファソンはフランスのニームにある1世紀のローマ時代の神殿を研究、バージニア州リッチモンドの州庁舎(1785~89)のモデルとして利用した。読書と旅行をとおしてローマ建築に対する理解を深めた彼は、首都ワシントンの都市計画などにその知識を生かしている。

19世紀前半のアメリカでは、前5世紀のギリシャ神殿とエルギン・マーブルズの影響にもとづく「グリーク・リバイバル様式」が一世を風靡(ふうび)した。「フェデラル様式」とこの「グリーク・リバイバル様式」の2つが、わかきアメリカの建築的特質となっていく。

IV

絵画

新古典主義絵画の中心はローマであった。祖国をはなれた大勢の画家たちがドイツ人の美術史家ウィンケルマンの周囲にあつまっていたのである。このサークルには、祖国をすてたドイツ人メングス、スコットランド人のハミルトン、そしてアメリカ人のウェストなどがいた。メングスの「パルナッソス」(1761)はローマのビラ・アルバーニの天井画であるが、明らかにウィンケルマンの忠告にしたがってえがかれている。バロックやロココの天井画とちがい、構図が単純で、古代の彫刻にみられるような穏やかで静的なポーズをした人物がえがかれている。また考古学者でもあり美術商でもあったハミルトンは、1760~65年に5点の作品を完成したが、それらはホメロスの「イーリアス」からヒントをえたもので、古代彫刻をそのままうつしたような人物を登場させた。それらの作品は主題も扱い方も荘重かつ端正で、考古学的にも正確なものであった。

こうした傾向は、新古典主義絵画の最大の巨匠と目されるフランスの画家ダビッドの初期の作品にもみとめられる。彼の「ホラティウス兄弟の誓い」(1784~85)は、禁欲的な愛国的行為をたたえたものである。箱のような建築空間とフリーズのような人物配置は、新古典主義が構図上の秩序や明快さに関心をもっていたことをしめしている。しかも、くっきりとした輪郭やきびしい光は、人物をまるで彫刻のようにうきたたせている。後年のナポレオンの注文による作品、たとえば「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」(1805~07)などは、世俗的な華美や権力を称揚している点で、かつての作品とはかなりちがったものになっている。

1790年代の初めごろまでに、画家たちはギリシャの壺絵にある、平板でシルエット風の人物たちを模倣しはじめていた。この様式の代表者がイギリスの画家フラックスマンで、ホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」のためにえがいた単純な線による銅版画(1793)は、従来の遠近法や光線の扱い、肉付けの方法を完全に一掃してしまった。この様式は爆発的にヒットし、ひろく模倣された。ダビッドの弟子で古典的伝統の指導的継承者であったアングルも、この2次元的方法を採用した。それは初期の作品「アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち」(1801)にみられる。

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