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伝統的に男性により高い地位と自由をあたえる社会に生きる女性に、政治的、社会的、経済的な平等を要求する運動で、18世紀後半のヨーロッパでおこった。これらの権利要求には財産権、教育と雇用(女性の労働と雇用)の機会、参政権、そして性的自由などがふくまれる。1970年までに世界じゅうの大半の女性は、法のもとで多くの権利を獲得してきたが、実際上は男性との政治的、経済的、社会的な平等はいまだに達成されていない。
学者の中には、ヨーロッパ大陸と中東の至る所で旧石器時代以降の女神の石像が何千と発見されることから、原始社会は本来女神崇拝であり、母系社会(→ リネージ)であったとする者もいる。しかし、男性の優位はすでに最古の歴史的記録の時代から明らかである。おそらくこれは、男性が妊娠における彼らの役割を発見したことと、威信ある活動としての狩猟と戦争の発展の結果と考えられる。 女性は本来男性よりも弱くおとっているという信念も男性神中心の宗教によって認可されたものである。聖書では神はイブをアダムの権威のもとにおき、聖パウロは、キリスト教徒の妻に彼女らの夫に従順たれと説いた。ヒンドゥー教では貞淑な女性の報酬は男性として生まれかわることであるとされた。 それゆえ、大半の伝統的社会では、女性は一般に不利な立場におかれていた。彼女たちの教育は家事の技術を習得することに限定されており、権力の地位に近づく方法はなかった。結婚は扶養や保護の手段として必要不可欠といってもよかったが、多くの子供を出産しなければならないという圧力がたえず女性にかけられた。既婚の女性は通例妻の地位をえて夫の家族とすむため、虐待をうけたり扶養を放棄された場合でもほとんど頼りにする者はいなかった。 後世の欧米の法律に影響をあたえたローマ法のもとでは、夫婦は一体であり、しかも女性たる妻は男性である夫の所有物であった。そのような存在として女性は、自分の人格、彼女自身の土地や金銭、あるいは自分の子供に対する権限をもっていなかった。立派な女性は貞節でなければならないが男性はその必要はなかった。土地保有が軍役の義務をともなっていた中世にあっては、法は女性の男性への従属を奨励した。 例外もあるにはあった。バビロニアとエジプトの女性は財産権を所有していたし、中世ヨーロッパでは女性も技能ギルドに加入することができた。女性の中には、たとえば、シベリアのシャーマンやローマの女神官のように宗教的な権威をもつ者もいた。時として、エジプトやビザンティンの女王、中世の女子修道院の院長、さらに男性を氏族や部族の会議のメンバーに指名するイロコイ諸族の女性のように政治的権威をもつ者もいた。数は少ないが高度の教養を身につけた女性が古代ローマや中国、ルネサンス期のヨーロッパで活躍していた。 下層階級の男性も権利をもたなかったが、自分は女性よりも優秀だと感じることにより、自らをなぐさめていた。苛酷な境遇で自らの威厳を保持しようとするそうした男性が女性の苦境に同情するとは思えなかった。
平等主義を強調する啓蒙思想の時代と経済的・社会的変化をひきおこす産業革命は、18~19世紀におけるほかの改革運動とならんでフェミニズムの勃興にも好都合な環境を準備した。 フランス革命期のフランスでは女性の共和派のクラブは、自由、平等、友愛という目標は性別に関係なく万人に適用されるべきだと主張した。しかし、その後に制定されたローマ法に基礎をおくナポレオン法典はヨーロッパ大陸でそのような希望が実現される可能性をつぶした。イギリスのメアリ・ウルストンクラフトは、近代フェミニズムの最初の著作「女性の権利の擁護」(1792)を書いたが、この著作は平等を要求しかつ革命的な調子をおびていたために当時の社会にはうけいれられなかった。 女性にとってさらに深い意義をもったのは産業革命だった。女性がそれまで無給でおこなってきた家内労働が機械による大量生産に変化したことは、下層階級の女性が工場で賃金の稼ぎ手となる可能性を意味した。このことは女性の自立の開始でもあった。もっとも、工場という職場は危険だったし、男性より低い彼女たちの賃金は法律上は夫により管理されていた。 いっぽう、中産・上流階級の女性は、夫の経済的成功を象徴する装飾的なシンボルにとどまることが期待された。それら以外で、女性にとって尊敬に値する選択は、家庭教師、事務員、店員、女中としてはたらくことだった。こうした状況はフェミニズム運動を促進した。 ヨーロッパ大陸ではフェミニズム運動が散発的にあらわれたが、力は弱かった。カトリック教会は、フェミニズムは家父長的な家族を破壊するという理由から反対した。農業国は伝統的な考えに固執し、いっぽう、産業国家ではフェミニズムの要求は社会主義運動に吸収される傾向にあった。 国民の大多数がプロテスタントで急速に産業化するイギリスとアメリカ合衆国においてフェミニズム運動は成功をおさめた。両国でのフェミニズムの指導層は、主として中産階級に属し、教養のある余暇にめぐまれた改革志向の女性たちだった。 1848年、100人以上の人々がニューヨークのセネカ・フォールズにあつまり、最初の「女性の権利のための大会」をひらいた。奴隷廃止論者のモットとフェミニストのスタントンにひきいられたフェミニストたちは、女性参政権と男女の二重道徳規準の廃止をふくむ平等な権利を要求した。イギリスのフェミニストは55年に限定的な財産権獲得を目標とする大会をひらいた。イギリスの哲学者ミルは「女性の隷従」(1869)をあらわし、イギリスのフェミニズムに社会の注目をひきつけた。 アメリカ合衆国のマウント・ホールヨーク(1837年創立)やイギリスのケンブリッジ大学のガートン・カレッジ(1869)のような大学が女性のためにつくられた。もっとも男性が支配する総合大学へ入学する権利の獲得はさらにのちのことである。既婚女性の財産権は、イギリスでは1870年に、アメリカではさまざまな時期に立法化され、女性に自分の財産を管理する権利をあたえた。のちに離婚、妻への慰謝料、児童手当の条項が制定された。 イギリスとアメリカのフェミニズムの第一の目標となった参政権は、大衆的しかも時には暴力的なキャンペーンにもかかわらず多くの反対に遭遇した。投票権は、女性が第1次世界大戦中に有給もしくはボランティアの労働者として貢献したことがみとめられて、1919年に合衆国憲法修正第19条が連邦議会で承認され、ようやく付与された。
1917年のロシア、1949年の中国における革命ののち出現した新しい社会主義政府は、家父長的な家族制度を弱め、産児制限をふくむ性的な平等を支持した。しかし、ソ連では勤労女性の大半は低賃金の仕事につき、ごく少数の女性が党や政府の評議会の代表になったにすぎない。産児制限の技術は未発達なものだったし、保育所はほとんどなかった。さらにはたらく妻は家事をし子供の面倒をみる義務があった。 中国ではその理想はかなり実現されたが、女性に対する仕事上の差別は存在した。スウェーデンの社会民主主義政権は、1930年代に育児施設をふくむ広範囲におよぶ女性のための平等権をさだめた綱領を制定した。 イギリスとアメリカでは平等権の進歩はさらに緩慢だった。はたらく女性の数は2度にわたる世界大戦をへて増加したが、大部分は、事務労働のような女性中心の仕事についていた。高給で男性中心の専門職や連邦、州などの高官につく機会はほとんどなかった。産児制限の唱道者は家族計画に対する女性の権利がみとめられる何十年も前から運動をつづけていた。無条件男女平等をさだめる合衆国憲法の修正条項は1923年に連邦議会に提出されたが、前進しなかった。 1960年代になり、人口、経済、社会の構造が変化する中でフェミニズムの復活が促進された。幼児の死亡率の低下、成人の寿命の急上昇、さらに60年以降産児制限用のピルが利用可能になったことは、育児の義務から女性を解放した。これらは家族がダブル・インカム(2つの所得)を必要とするほどのインフレの高進と離婚率の上昇とむすびつき、さらに多くの女性を労働市場にかりたてた。60年代後半になると女性の労働力はイギリス、フランス、ドイツ、アメリカで全労働力の約40%を占めるにいたった。この数字は80年代半ばには50%以上になった。 はたらく女性がさまざまな形の差別に遭遇するにつれて、アメリカにおけるフェミニズム運動は勢いをました。女性のための機会均等を考える大統領諮問委員会が1960年に設立され、教育、雇用、法的権利における男女平等をみとめる法律が連邦議会で承認された。もともとは黒人のために立法化された公民権法が64年には女性にも拡大適用された。72年には連邦最高裁は妊娠中絶は合法だとし、さらに合衆国憲法平等修正条項が連邦議会を通過して各州に批准をもとめて送付された。 フェミニストたちは、男女の間にある性差の多くは生物学的というよりは文化的につくられたものであるとし、社会制度や道徳的価値観に疑義を呈した。1960年代後半から70年代初期にかけては、穏健なものから急進的なものまで数多くの女性の権利擁護のためのグループが組織された。 その代表は1966年に設立され85年には25万のメンバーを擁した中道の全米女性機構(NOW)で、これらグループは、女性のこうむっている不利益を自覚させるために多くの力をかたむけた。77年11月にはテキサス州ヒューストンで、アメリカで過去最大の女性全国大会が政府後援でひらかれ、政府の行動の公式ガイドとして大統領諮問委員会が起草したフェミニズム・レポートを承認した。 女性運動の目的は、(1)同一労働には同一賃金、(2)保育所への連邦政府の支援、(3)レスビアンの権利の承認、(4)堕胎の合法化の継続、(5)レイプや妻子への暴力問題に真剣に注意をはらうこと、(6)年老いた女性やマイノリティの女性に対する差別の排除、をふくんでいた。批准の期限切れとなる1982年6月までに憲法の平等修正条項を批准したのは35州にとどまり、修正に必要な38州には達しなかった。 この条項は、扶養手当と兵役の免除がなくなることをおそれる多くの女性の反対をまねいたが、なかんずく保守的な反動派が保育に対する連邦政府の援助に反発し、妊娠中絶やレスビアニズムは不道徳で家族を破壊するとして強い異議をとなえ、修正条項はほうむられた。 アメリカの女性は過去10年間に多くの勝利を獲得した。しかしレーガン政権下では、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)や男性との同賃金といった点では敗北を喫した(もっとも1986年には連邦最高裁は過去の職業差別を補償するためにアファーマティブ・アクションを適用することをみとめている)。 世界各地で女性の権利をもとめる運動はある程度の前進をみせてきた。90%以上の国々で女性は選挙に参加でき公職につくことができる。国連の女性の地位に関する委員会の援助をうけて多くの国々で法律上の権利と教育と専門職につく機会が拡大してきている。 しかし発展途上国における工業化は女性に有利だった伝統的な経済的な仕組みを破壊し、またイスラム世界にみられるように原理主義の復活は、時には女性に対する抑圧的な行動の再発をもたらすこともあった。1975年に国連は女性のための10年計画をうちだし、世界女性会議が75年、80年、85年につづき、95年に北京でひらかれている。
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