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Windows Live® の検索結果 1794~1858 アメリカの海軍軍人。ロードアイランド州サウス・キングストンに海軍軍人の3男として生まれる。1812年からの米英戦争に参加、33年にブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船場長、41年にそこの司令官となり、蒸気船の建造や士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。52年には東インド艦隊司令長官に就任、日本の開国をめざして米国東海岸ノーフォーク港を出発した。翌53年7月8日(嘉永6年6月3日)、サスケハナ号など4隻をひきいて浦賀に来航し、日本じゅうを黒船来航の大パニックにおとしいれた。 長崎回航を要求する江戸幕府に対し、ペリーは老中に相当する閣僚クラスとの面会を要求し、ついに大統領フィルモアの国書をわたすことに成功。翌年の再来航と日本側の回答を約束させてひきあげた。 ペリーはいったん中国に退去し、翌1854年2月13日(安政元(嘉永7)年1月16日)にふたたび来航した。今度は7隻の軍艦をひきいていきなり江戸湾に侵入する示威行動をとり、幕府をあわてさせた。老中阿部正弘は大学頭(かみ)林韑(あきら)と江戸町奉行の井戸覚弘(さとひろ)を全権代表とし、石炭・食料の供給、遭難船員の救助はみとめるが通商には応じられないと回答。ペリーはあっさりこれを了承し、下田・箱館の開港と片務的最恵国待遇などをさだめた神奈川条約(日米和親条約)をむすんだ。これにより200年以上つづいた鎖国がやぶられることになった。 ペリーは帰国後に「日本遠征記」(1856)をあらわし、この中で日本の経済大国化とアメリカとの通商競争を予言している。
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