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ただちにマルサスの理論を動物と植物にあてはめ、1838年には、自然選択による進化論の概略ができあがった(→ 種)。これにつぐ20年間は、進化論の構築と、そのほかの博物学の研究にもとりくんだ。彼は経済的に裕福であったため、これらの研究に収入をもとめる必要はなかった。39年には、いとこのエンマ・ウェッジウッドと結婚。まもなくロンドン郊外のダウン・ハウスにうつりすむ。そこで夫妻は10人の子をもうけるが、このうち3人はおさなくして命をおとした。
1858年、ダーウィンは、はじめて自分の研究を発表する。彼とは別に自然選択の理論に到達していた後輩の博物学者ウォーレスの進化論とあわせた共同論文のかたちであった。完成させた理論を「種の起原」にまとめ、59年に出版。世界を震撼させた本と評されることの多い「種の起原」は出版当日に完売し、のちに6版を重ねた。
ダーウィンの自然選択による進化論は、マルサスが論じた食糧供給問題をヒントにしており、いかなる種の子もはげしい生存競争にさらされるという考えが基本になっていた。 生きのこって次の世代をうむ子は、自然選択の過程で環境により適応した変異をもち、変異は遺伝によってうけつがれる。個々の世代は前の世代より適応性を高め、これらの漸進的で継続的な過程が種の進化の源である。 自然選択説はダーウィンの広大な概念体系の一部にすぎない。彼は、類縁関係にある生物はすべて共通する祖先から生まれるという概念もとりいれた。さらに、地球自体も不変ではなく進化しているとする古くからある概念を側面から支持した。
「種の起原」への反発は、すぐにあらわれた。生物学者の中には、ダーウィンはみずからたてた仮説を証明できないと主張するものがいた。また、ある者は、ダーウィンは変異の原因についても、変異がいかにして次の世代につたえられるのかも説明できないと主張して、変異の概念を批判した。 変異の伝達に関するこの異議については、20世紀初期に現代遺伝学が生まれるまで解答がみいだせなかった(→ 遺伝学:メンデルの法則)。事実、「種の起原」が出版されてから50年、あるいは最近にいたるまで、科学者たちは疑問を表明しつづけたのである。
しかし、もっともはげしい攻撃は、科学者によるものではなく、宗教界からのものであった。生物が自然の作用によって進化するという考えは、人類の創造を否定し、人類を動物と同じ水準におくことにつながり、正統派神学にまっこうから対立するものであった。→ 天地創造
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