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  • 中央アメリカ - Wikipedia

    中央アメリカ (中米、スペイン語 América central)は、 メキシコ の南東部の国境からコスタリカと パナマ との国境までの地域を指す。 西インド諸島 を含み、 メキシコ や 南アメリカ と併せて ラテンアメリカ (中南米)と呼ばれる。

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中央アメリカ

中央アメリカ ちゅうおうアメリカ Central America
百科事典項目
項目構成
3

鉱業

相当量の鉱物資源の存在がみとめられているにもかかわらず、採掘量は少ない。エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアでは少量の銀・金・鉛・銅・アンチモンが採掘される。グアテマラでは石油を産出する。

4

製造業

中央アメリカの製造業は、サトウキビ、コーヒー、綿花、材木、魚介類などの加工が大部分を占める。このほか1950年代以降は、必需品の輸入削減をはかるために、大都市圏で、塗料、洗剤、タイヤ、紙製品、肥料、殺虫剤などの工業が発達した。しかし、その規模は小さく、従業員数10人以下の工場がほとんどである。エネルギー供給能力に限界があることや、輸送機関の発達の遅れ、市場規模の小ささなどが、大規模な工業の発達の阻害要因となっている。

V

歴史

コロンブス来航以前、メキシコからコロンビアにいたる地域にはさまざまな先住民が多数居住していた。なかでもマヤ族は、高度に発達した特色ある文明をきずいた。マヤ文明はグアテマラ高地で前1000年以前におこったが、300~900年に、現在のグアテマラ北部、ホンジュラス、ベリーズ、メキシコのユカタン半島に独立した自治都市国家をきずき、絶頂期をむかえた。マヤ族の統一性は、政治的というより文化的なものであったが、その文明の影響は広範囲におよんだ。芸術や科学の水準は同時期のヨーロッパを凌駕(りょうが)していた。

しかし900年を境に衰退し、メキシコから侵入してきたトルテカ人に征服されてしまった。スペインによる征服直前の中央アメリカの総人口はすでに600万人に達していたと考えられているが、ふたたびこれだけの人口に回復するのは20世紀になってからのことである。

1

植民地時代

1502年のコロンブスの来航を機に、スペインによる中央アメリカへの進出が開始された。コロンブスは、ホンジュラス湾からパナマにかけての沿岸を航海した。「この地域には多数の人間が居住し、海からみえる山脈のむこうには莫大な富がある」とのコロンブスの報告に刺激をうけたスペイン政府は、ただちに征服に着手した。最初に進出をこころみたのはコロンブスの息子ディエゴで、彼はイスパニョーラ島から中央アメリカにわたった。

スペイン人の探検家バルボアは1510年にパナマのダリエンに入植地を建設したが、これはアメリカ大陸におけるスペイン初の本格的植民地だった。彼は13年には太平洋岸に到達している。しかし、バルボアはパナマ総督ペドラリアス・ダビラにより19年に処刑された。ダビラは植民地の拡大をはかり、19年にパナマ市を建設、ここからニカラグアとホンジュラスの平定にのりだした。

その後は、パナマ、イスパニョーラ島、メキシコをそれぞれ拠点とするスペイン人同士の凄惨な争いが展開された。そして、メキシコの征服者コルテスの忠実な部下アルバラドが、最終的に中央アメリカ全域をほぼ制圧した。

征服者たちは先住民を多数殺害したが、これを上まわる数の先住民が、天然痘ペスト赤痢インフルエンザなどのヨーロッパからもたらされた疫病の大流行で死亡した。スペイン人は先住民を奴隷もしくは農奴化し、本国からもちこんだ諸制度にもとづく農業社会をきずいた。しかし、スペイン人は当初は少数にとどまり、また都市に居住したため、先住民の習慣や伝統がきえることはなかった。

植民地時代の中央アメリカは、法制度上2つの地域にわけられていた。グアテマラ総監領はチアパス(現在はメキシコ最南の州)からコスタリカまでをふくむ。この地域は、名目上ヌエバエスパニャ副王領の一部だったが、ある程度の自治がゆるされた。主都アンティグアグアテマラには、官吏、聖職者、地主や商人など植民地上層部があつまった。中央アメリカの残りの地域(現在のパナマ)は、重要な地峡横断経路をふくめてペルー副王領下のヌエバグラナダ(現在のコロンビア)に帰属した。

17世紀にスペイン本国の国力がおとろえると、植民地上層部の自治権力が強まった。彼らは教会や植民地政府の協力を得て、先住民とメスティソを支配した。

2

中央アメリカ連邦

1821年、グアテマラ総監領のスペイン系を中心とする上層部は、メキシコの統率にしたがいながらスペイン本国の支配から離脱した。この地域はイトゥルビデのひきいるメキシコ帝国に併合されたが、23年にメキシコ帝国が崩壊すると自由主義勢力が権力をにぎり、チアパスと、ボリーバルの指導のもとに独立したグランコロンビアの一部のパナマをのぞいた地域で、中央アメリカ連邦を創設した。

中央アメリカ連邦は、スペイン的伝統を拒否する共和主義的改革と経済開発をうちだしたが、それは野心的ではあっても現実性にとぼしかった。その結果、地域主義が高まり、上層部はたがいに権謀術策にはしり、内戦が勃発(ぼっぱつ)した。1834年、自由主義派により首都はグアテマラシティからサンサルバドルにうつされたが、自由派の政策は上層部のうちの保守派と農民のはげしい抵抗にあった。

1838年にグアテマラの農民指導者カレラがグアテマラシティを占領したころから連邦は崩壊にむかい、39年、中央アメリカ連邦は解体した。この解体により誕生したのが今日のグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカの5カ国である。

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