Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 12 / 12
項目構成
バスク地方の分離独立をもとめる「バスク祖国と自由」(ETA)の武力闘争は、民主化移行後のスペインにおける最大問題のひとつとされてきた。1960年代以降、ETAによるテロの犠牲者は政治家、軍幹部、警官など800人以上にのぼるといわれる。80年代には、治安警備隊のメンバーらが構成する非合法の反テロ組織GALがETA幹部の殺害などに暗躍、のちにGALへの政府の関与が指摘された。 1997年、バスク州議会の国民党議員ブランコがETAによって誘拐・殺害されると、反ETAの声はスペイン全土に広がった。98年9月、ETAは、突然、無期限全面停戦を宣言。しかし、テロの終焉とひきかえに民族自決権、スペイン憲法の修正、フランス側バスクの領土一体性の承認などを要求するETAと政府の交渉は難航し、ETAは99年8月、交渉中断を通告、同年12月、停戦を破棄した。 2001年のアメリカ同時多発テロ後、アスナール政権はETAに対する圧力を強め、02年6月には改正政党法を成立させて、ETAの政治部門であるバタスナの非合法化をはかった。バスク州議会で1割の議席を占める政党バタスナは、ETAのテロ活動との関わりを否定しているが、最高裁判所は3年間の政治活動停止を命じ、03年3月、バタスナ党本部は閉鎖された。その間、国家警察とバスク州警察の連携によってETA幹部の摘発もすすめられ、03年12月、アスベス内相は「ETAはほぼ壊滅した」とアピールした。
総選挙を3日後にひかえた2004年3月11日朝、首都マドリードの中心部にあるアトーチャ駅など3つの鉄道駅で同時多発爆破事件が発生した。4つの列車に13の爆弾がしかけられ、うち10発が次々に爆発するという、スペイン史上かつてない規模のテロで、通勤・通学の時間帯であったことから、死者191人、負傷者1800人以上という大惨事となった。政府はただちに「バスク祖国と自由」(ETA)の犯行との見方をしめしたが、ほどなくしてイスラム過激派の関与が濃厚になった(のちにイスラム過激派グループが逮捕され、21人が有罪判決をうけた)。 国際社会が注目する中、総選挙は予定どおり3月14日に実施され、下院で社会労働党が大勝した。国民党政権は、スペイン経済を好調の波にのせ、失業率を半減し、ETAに対する強硬姿勢も評価されて、選挙戦の終盤まで勝利が確実視されていた。その流れが逆転したのは、テロでイスラム過激派の犯行説が浮上したことにより、世論にさからってイラク戦争を支持したことへの反発がよびさまされたためと考えられている。テロに関して政府がETA犯行説を強調したことも不信感をあおる結果となった。
2004年4月、首相に就任した社会労働党の書記長サパテロは、男女同数の内閣を組閣。アスナール政権時代の親米路線から親欧・国際協調路線へと外交方針を転換して、政権発足後すぐにイラク駐留スペイン軍部隊の撤退をきめ、5月に撤退を完了した。サパテロが提案した同性婚の合法化は、カトリック教会と保守層が猛反発して大きな語論をまきおこしたが、上院で否決後、下院で再可決されて05年に成立した。また、ヨーロッパ各国が移民に対する規制を強化する中で、サパテロ政権は、期限内に申請した不法移民に滞在・労働許可をあたえるという大幅な緩和策をうちだし、60万人近い不法移民を合法化した。滞在許可をえた移民はEU(ヨーロッパ連合)内を自由に移動できるため、スペインの緩和策はドイツなどからきびしい非難をあびることになった。 2006年12月末、マドリードのバラハス空港の駐車場で、「バスク祖国と自由」(ETA)の犯行とみられる爆発がおこり、犠牲者2人を出した。サパテロ政権は、06年3月に「無期限停戦声明」を出したETAに対し、国内の批判をうけながら和平対話路線をすすめてきたが、この事件により対話の打ち切りを宣言する事態においこまれた。その数日後、爆破事件の犯行声明を発表したETAは、6月、停戦の破棄を表明し、テロ活動を再開した。 2008年3月、総選挙がおこなわれ、「われわれの社会改革には、あと4年必要」とうったえた社会労働党が、下院で5議席ふやして第1党を維持した。移民の規制強化をかかげた最大野党の国民党も議席数を拡大し、二大政党化がすすんだ。なお、上院では国民党が第1党を維持したため、前回選挙からの「ねじれ」状態がつづく。4月14日に発足したサパテロの新内閣は、首相をのぞく17閣僚中9人が女性で、国防相も初の女性起用となった。与党の勝利は、これまでの順調な経済や民主改革が国民に承認された結果といえるが、経済成長は07年から失速しており、失業問題や、ふえつづける移民、ETAのテロなど、2期目に入ったサパテロ政権がかかえる問題は多い。イラク撤退以来冷えきっているアメリカとの関係修復も、外交の大きな課題となっている。
日本とスペインの交流は、1549年(天文18年)、ザビエルがキリスト教布教のために鹿児島に上陸したときにはじまる。以後、1624年(寛永元年)に江戸幕府がスペイン船の来航を禁止するまでの間、多数の宣教師が渡来し、交易活動も盛んにおこなわれた。1584年(天正12年)にスペインに渡航した天正遣欧使節がフェリペ2世に謁見し、1615年(元和元年)には、伊達政宗が派遣した支倉常長一行がフェリペ3世に謁見した。 1868年(明治元年)、日本はスペインと修好通商航海条約をむすび、国交を再開する。第2次世界大戦中も親密な関係が維持されたが、1945年(昭和20年)のマニラでのスペイン宣教師殺害事件がきっかけとなり国交が断絶した。 1956年に国交が回復して以後、両国の関係は外交、経済、文化の各方面でいちじるしい進展をみせている。80年代後半にはEC(ヨーロッパ共同体)諸国への輸出拠点作りのために日本からスペインへの直接投資が急増した。また82年に文化協定がむすばれてからは、政府、民間レベルでの文化交流が活発になっている。2007年(平成19年)に設立された「セルバンテス文化センター東京」は、スペイン政府が設立したセルバンテス文化センターの東京支部で、日本におけるスペイン語教育の推進や、スペインおよびスペイン語圏諸国の文化の紹介などをおこなっている。
© 1993-2008 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |