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項目構成
旧石器時代の先住民がのこした表現力豊かな洞窟壁画(どうくつへきが)が、ビスケー湾沿岸やピレネー山脈中で発見されている。新石器時代には、南東部で北アフリカ文化と類縁関係にあるとみられるアルメリア文化がさかえた。 北アフリカに起源をもつイベロ人は南部に侵入し、前1000年ごろにはもっとも有力な民族集団となった。イベリア半島の名前は、このイベロ人に由来する。他方、北部から中部にかけてはフランスからケルト人が侵入し、これがイベロ人と混血してケルト・イベロ人が形成された。
前11世紀ごろ東地中海からフェニキア人が渡来し、ロードス島やギリシャの商人がこれにつづき、地中海沿岸に植民した。前3世紀には北アフリカのカルタゴが侵入し、ハミルカル・バルカ将軍によって半島の大部分が征服され、現在のバルセロナやカルタヘナの町の原型がつくられた。 カルタゴの勢力拡大はローマとの抗争をひきおこし、ポエニ戦争でローマにやぶれたカルタゴは、前206年、半島から追放される。イベリア半島はローマによる支配が確立し、ヒスパニアと命名されて3つの州に分割された。その後、5世紀の西ローマ帝国崩壊まで、ヒスパニアは穀倉として、また金属の産地として、ローマ支配地の中でも豊かな地域となった。
5世紀には、チュートン族をはじめとしてアラン族、バンダル族、スエビ族などが次々に侵入し、ローマによるヒスパニア統一はくずれた。412年、ローマとむすんだ西ゴート族が軍をひきいて半島にせめいり、418年、南フランスのトゥールーズを都とする西ゴート王国を建国。最盛期には、ジブラルタル海峡からロワール川までを支配下におさめた。その後3世紀にわたる西ゴート王の支配のもと、ローマ文化とキリスト教がイベリア半島に定着し、ローマ法典をもとに西ゴート法典が編纂された。
711年、ターリクの指揮するイスラム軍が北アフリカから侵入し、西ゴート軍をやぶって半島のほぼ全域を支配下におさめる。イスラム教徒による支配がはじまった当初、半島はダマスカスのウマイヤ朝支配下のアミール(総督)領にすぎなかったが、756年には、アッバース朝との権力闘争にやぶれたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世がダマスカスから亡命し、新アミールとなって独立を宣言した(後ウマイヤ朝)。 929年、アブド・アッラフマーン3世はみずからカリフを称し、後ウマイヤ朝は最盛期をむかえる。首都コルドバはイスラム・スペインの文明がさかえ、ヨーロッパ屈指の華麗な都市となった。イスラム美術や建築が開花し、大学では医学、数学、哲学、文学が発展した。商業と農業の発展も促進され、南部全域にすぐれた灌漑システムがつくられた。
イスラム教徒が支配を確立する一方、北方からはキリスト教徒が徐々に勢力を拡大し、914年、ガリシア地方、レオン地方にレオン王国を創建した。レオン王国東部の辺境は、イスラム教徒の攻撃にそなえて「カスティリョ」(スペイン語で「城」)を多くきずいたことから、「カスティリャ」とよばれるようになる。カスティリャとレオンは統一と分裂をくりかえしたのち、1230年にカスティリャとして統一された。 一方、北東部のカタルニャ地方はフランク王国によってイスラム教徒から奪回され、分立と統合ののち、1137年にはアラゴン連合王国を成立させた。このように、半島の北部に広がるキリスト教徒の支配地域では、西半分のカスティリャ王国と東半分のアラゴン連合王国という二大勢力が併存し、それぞれ独自の言語や政治制度を維持しながら、イスラム教徒からの国土回復戦争をすすめていった。 1036年、後ウマイヤ朝最後の王ヒシャーム3世が没すると、コルドバのカリフ国は小国に分裂する。イスラム権力の解体により北部のキリスト教諸国は勢力を強め、一部のイスラム教国を服従させるにいたった。11世紀末には北アフリカのムラービト族が半島にせめいり支配したが、長続きせず、同じ北アフリカ起源のムワッヒド族にほろぼされた。ムワッヒド族も1212年にはキリスト教軍にやぶれて半島から追放され、イスラム勢力は南東部のグラナダ王国のみとなった。
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