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1788年に即位したカルロス4世は、近衛将校(このえしょうこう)だったゴドイにスペイン統治を一任した。89年にフランス革命がおこると、革命思想の波及をおそれたスペインは、ヨーロッパ列強とともに革命政府との戦争をはじめた。しかし、この戦いに敗退するとゴドイは政策を一転させ、フランスと同盟をむすぶが、トラファルガーの海戦でイギリスに大敗する。 1808年、民衆が暴動をおこし、ゴドイは失脚した。ナポレオン1世はスペインを直接支配下におくため、自分の兄ジョゼフをホセ1世として王位につけた。
ジョゼフを国王としてみとめない民衆は各地で反乱をおこし、イギリス軍がこれに味方した。フランス軍は反乱地域の多くを制圧したが、ゲリラ活動になやまされつづけた。こうした状況の中、諸都市で評議会が結成される。1812年、少数の評議会代表が南部の町カディスにあつまって国民議会が開かれ、議院内閣制の導入などをもりこんだ、進歩的な憲法が採択された。 スペイン独立戦争(1808~14年)の名で知られるこの争乱の結果、フランス軍は撤退したが、6年におよぶ戦闘でスペイン経済は弱体化し、アメリカ大陸の植民地の独立をうながした。1826年には、アメリカ大陸の植民地はいずれも独立を達成し、支配下にのこったのはキューバとプエルトリコのみとなった。 1814年、カルロス4世の子、フェルナンド7世が王位につき、カディス憲法を廃止して絶対主義体制をしいた。6年後、自由主義派将校らの軍事クーデタがおこり、政府を樹立。カディス憲法が施行されたが、自由主義派の内部対立により政権は安定しなかった。神聖同盟諸国はスペインにおける革命が近隣諸国に波及することをおそれて、フランス軍のスペインへの軍事介入を決定する。自由主義政府はたおされ、フェルナンド7世による絶対主義体制が復活した。
1833年にフェルナンド7世が没し、生後間もない娘のイサベル2世が母を摂政として即位すると、王弟カルロスに王位をつがせるべきとするカルリスタ(カトリック伝統主義勢力)が反乱をおこした。この対立は全国的な争乱に発展したが、39年ごろまでに政府軍に制圧された。
イサベル2世の治政下では進歩派と穏健派の対立がつづき、しばしば軍事蜂起(ほうき)による政権交代がおきた。1868年9月、進歩派が海軍とむすんで軍事蜂起し、イサベル2世はフランスへ亡命を余儀なくされた。「9月革命」とよばれるこの事件につづく6年間は、スペインにおける民主主義への道を開く時代となる。 9月革命体制のもとでは、民主的な1869年憲法が制定され、71年にはイタリアの王子アマデオを国王にむかえた。しかし、カルリスタ戦争の再発にくわえ、キューバの独立運動や急進的な自由主義の拡大にもなやまされ、アマデオは73年には退位した。同年、第1共和政が成立したが、共和派内部の対立や地方の反乱がおこり、政情は安定しなかった。74年、軍事蜂起により共和政は打倒され、イサベルの息子アルフォンソ12世を新国王としてブルボン朝が復活する。
復古王政下では、1876年に制定された新憲法にもとづき、保守党と自由党の二大政党制の導入による立憲君主制の確立がはかられた。政治的安定の時代がしばらくつづいたが、アメリカの支援をうけてキューバの独立運動がふたたび激しさをまし、98年にはアメリカ・スペイン戦争に発展した。敗北したスペインはキューバから撤退し、プエルトリコ、グアム島、フィリピンをアメリカに割譲した。 この事件を契機に反体制運動が活発になっていく。農民や工業労働者の間にアナーキズムが浸透し、工場や鉱山では社会主義運動が根をはりはじめた。カタルニャでは自治をもとめる運動が活発化した。1909年、モロッコ派兵のために予備役を招集すると、バルセロナの労働者らは過激な抗議運動をおこし、軍隊との衝突で多数の死者が出た。
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