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項目構成
1955年5月の国家条約(主権回復条約)により、オーストリア軍は公認された。この条約は軍の規模に制限をあたえていないが、軍備は通常兵器にかぎられている。 オーストリアには18~50歳の男性に対して、7カ月間の兵役義務にくわえ、予備役としての兵役もある。2004年の総兵力は3万9900人。NATO(北大西洋条約機構)には加盟していない。
前10世紀ごろにはすでに、現在のオーストリアの地域にはインド・ヨーロッパ系のイリュリア人がすんでいた。彼らは数世紀にわたって、いわゆるハルシュタット文化をいとなみ、イタリアの北部平原へと進出していった。かなりはやくからケルト人もすみつき、前2世紀にはノリクム王国をきずいた。紀元前後ごろになるとローマ人がドナウ川流域に進出し、やがてノリクム王国と、現在のドイツとスイスの一部をふくみ、ハンガリーやスロベニアへいたる地域を帝国の属州とした。 この属州における最初のローマ軍の拠点のひとつとなったのが、ウィンドボナ(現ウィーン)である。ウィンドボナをふくめてこの地域一帯はヨーロッパにおける交通の要衝にあたることから、その後も5世紀末のローマ人撤退まで、いくつかの民族のせめぎあいの地となった。2世紀にはゲルマン人が南下してきたため、その対応に手こずりながらも、ローマ帝国はこの地域に3世紀から4世紀にかけてキリスト教を広めた。 395年のローマ帝国の分裂後、5世紀に入ると東からアッティラにひきいられたフン族が侵入し、435年から約20年間その支配下におかれる。アッティラの死後は、しばらくの間ゲルマン諸部族の抗争の時代がつづいたが、5世紀末にスラブ人とともにアバール人が東方から進出してくるにおよんで、ローマ人はこの地域から一掃された。6~7世紀には西方からバイエルン人も進出してきた。
ヨーロッパ北西部における長期にわたるゲルマン諸部族の抗争の末、フランク族が勢力を拡大し、5世紀末にはフランク王国を形成していた。8世紀末、カロリング朝カール大帝はバイエルンを支配下におき、さらに東にすすんでアバール人の領土を占領、エンス川とラーバ川にはさまれた土地に植民地オストマルクを建設した。これは、フランク王国の東方の備えとして設置されたものである。この植民地は、のちに東の国すなわち「オーストリア」とよばれるようになった。 こうした備えにもかかわらず、880年、東からマジャール人が侵入する。955年、レヒフェルトの戦でマジャール人をやぶったザクセン朝東フランク王国のオットー1世は、オストマルクを再建し、その地の行政官に辺境伯という影響力のある称号をあたえた。 976年、神聖ローマ帝国皇帝となったオットー2世はオストマルクをバーベンベルク家にさずけたが、辺境伯領の境界は、その後の植民の進展にともない北東へしだいに拡大し、11世紀初期には現在のモラビアまでおよんだ。1156年には公領に昇格し、92年にはシュタイアーマルク公領もあわせてバーベンベルク家の所領となった。彼らは各地に都市と道路を建設、商業を奨励し、十字軍への参加によって名声を高めた。 しかし、1246年、バーベンベルク家最後の領主が死去すると、混乱の時代がつづいた。ボヘミア王オタカル2世は51年にウィーンを占領し、さらにシュタイアーマルク、カルニオラを勢力下におき、神聖ローマ帝国の皇帝位も要求した。これに対してドイツ諸侯は、73年にハプスブルク家のルドルフを神聖ローマ皇帝にえらぶ。ルドルフ1世は、帝国領の返還をこばむオタカルを78年マルヒフェルトに敗死させ、82年までにその領土の多くを息子アルベルト1世におさめさせた。
オーストリアの興隆はハプスブルク家と密接にむすびついている。14~15世紀の間、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の東部に所領を拡大した。ルドルフ4世はハプスブルク家の世襲領地の不可分を宣言したが、それは現代のオーストリア共和国の領土とほぼ一致している。1438~1806年の期間(1742~45年をのぞく)、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝位を独占した。 マクシミリアン1世が在位した1493~1519年以後、ハプスブルク家は政略結婚により領土を拡大し、強国となっていった。1496年、彼は息子のフィリップをフェルナンド5世とイサベル1世の娘ジョアンナと結婚させ、スペインに対する権利を確立した。1515年、フィリップの息子フェルディナントはボヘミア・ハンガリーの王女と結婚し、26年にはフェルディナント1世としてボヘミア王に即位する。フェルディナントの兄カールは1519年、マクシミリアン1世の死後カール5世として神聖ローマ皇帝となった。 スペインなどもふくめたハプスブルク家の領土は、一皇帝が支配するには拡大しすぎていたため、1521年とその翌年、カールはフェルディナントにオーストリアとドイツの一部をあたえた。カールは、56年にスペイン王として息子フェリペ2世を支持し、また同年に皇帝位を弟フェルディナントにゆずって退位した。この時点で、ハプスブルク王朝のスペインとオーストリアへの分割は完了する。
宗教改革は神聖ローマ帝国内にも急速に浸透し、オーストリアでも宗派をめぐって内戦がおこった。アウクスブルクの和議(1555)では信仰の自由が制限され、諸侯がみずからの宗教とその領内の人々の宗教を決定する権利をもつことが承認された。これはハプスブルク家でも尊重され、1619年にボヘミア王となった反宗教改革の擁護者フェルディナント2世はカトリックの教義を国民におしつけた。ボヘミアの新教徒は18年に暴動をおこし、これは三十年戦争に発展する。ハプスブルク家は敗戦し、ウェストファリア条約(1648)によって神聖ローマ帝国の支配力は弱められた。 1680年代、ハプスブルク家の支配に対するハンガリーの反乱をオスマン帝国が援助し、オスマン軍がウィーンを包囲したが、ポーランド・ドイツ連合軍にすくわれた。 1700年、継承者のいないままスペインのカルロス2世が死去すると、スペイン系のハプスブルク家領はフランス王ルイ14世の孫フェリペ5世にのこされた。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、これらの領地は息子ヨーゼフ1世のものであると宣言し、スペイン継承戦争に突入した。13年の戦争終結時、ハプスブルク家はスペインの王位をうしない、オランダの支配権と北イタリアにあるスペインの領土を獲得した。 1713年、神聖ローマ皇帝カール6世は国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を制定し、彼の財産は分割できないこと、オーストリア系ハプスブルク家の父系および母系に相続されることを宣言する。ヨーロッパの君主のほとんどは、さまざまな譲歩を見返りとしてこれをみとめたが、カール6世が死去し、男性相続人がいなくなった40年に、はやくもその約定は反古(ほご)にされた。
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