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項目構成
1871年のドイツ帝国の成立以後、オーストリア外交の関心はバルカン半島の情勢にむけられた。外相アンドラーシは現状維持をはかってドイツと友好関係をむすび、ドイツの内政に干渉しないかわりに、ドイツがロシアの南下をはばむ後ろ盾となることを約束させた。ロシア・トルコ戦争後のベルリン会議(1878)で、オーストリアは、かつてのトルコ領ボスニアとヘルツェゴビナを獲得する。79年にドイツとオーストリア・ハンガリー二重帝国は正式に同盟をむすび、82年にはイタリアがくわわって三国同盟が成立した。これによって、オーストリア・ハンガリー二重帝国はドイツの庇護の下に入ることになった。 ベルリン会議によりトルコから独立したセルビア王国は、1903年までオーストリア・ハンガリー二重帝国の衛星国だったが、やがて南スラブ人を統一して大きなセルビア人国家をつくることを主張しはじめる。したがって、08年、ボスニアとヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー二重帝国に併合された際には、ロシアに支援されたセルビアははげしく反発した。その後、セルビアが12~13年のバルカン戦争で勝利したため、オーストリアとセルビアの緊張は一気に高まった。
1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントと皇太子妃がボスニアの首都サラエボで暗殺された。オーストリア外務省は、セルビアに暗殺の責任があるとしてきびしい要求をセルビア政府につきつけた。セルビアがほぼ要求をのんだにもかかわらず、オーストリアは7月28日、セルビアに宣戦布告する。8月上旬、ドイツがロシアとフランスに宣戦布告し、第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。 1915年5月にイタリアは三国同盟を破棄し、連合国側について参戦。オーストリア・ハンガリー軍は敗北をつづけ、君主制が数十年にわたる国内の混乱で弱体化していたこともあり、16年のフランツ・ヨーゼフ1世の死後、帝国は崩壊しはじめる。彼の後継者であるカール1世は17年、連合国側と単独で秘密裏に和平をむすぼうとして失敗し、ドイツの怒りを買った。同時に、チェコ人、ポーランド人、南スラブ人の代表が、連合国内で臨時政府を樹立した。 1918年、オーストリア・ハンガリー軍はあらゆる前線で敗北した。食糧や生活必需品が欠乏し、ストライキやデモがおこったため、ナショナリストのグループは独立した政府として機能する国民会議を組織した。18年10月7日、南スラブ人はセルビアと連合し、10月28日にチェコ人はプラハで共和国の独立を宣言する。ハンガリー政府は、11月3日にオーストリアから完全に分離することを発表した。同日、オーストリアとハンガリーは、それぞれ連合国側との休戦協定に調印した。11月12日、カール1世は国政のすべてを放棄してオーストリアをさり、数日のうちにオーストリアとハンガリーは共和国を宣言した。
オーストリア共和国は700万の民をかかえ、混乱と貧困におちいった。帝国の崩壊によってボヘミアとモラビアの工業地域をうしない、ハンガリーの連合により形成されていた巨大な国内市場も消失した。ドイツ系オーストリア人はドイツとの統一をのぞんだが、これはベルサイユ条約とサンジェルマン条約によって禁じられていた。1920年には、二院制議会と民主的な選挙を内容とする連邦制憲法がつくられる。 経済再建が外国機関の支援でおこなわれ、1919~20年にはアメリカ合衆国、イギリス、スウェーデンから食糧が提供された。インフレの進行により国の財政困難はきわまり、22年にオーストリアは国際連盟に援助を要請。国際連盟は経済の崩壊をふせぐため大規模な借款を付与し、その条件として、オーストリアは少なくとも20年間、中立であることをちかわせられる。借款の条件だったデフレ政策は、多くの経済難と失業を生んだが、オーストリアの財政は徐々に安定していった。 国内の政治状況は、社会党の強いウィーンと保守的な地方の州が対立したため、安定しないままであった。1927年7月15日、ウィーンで社会主義者による大規模なデモが発生、裁判所は放火され、警察とデモ隊の衝突により約100人の死者が出た。
オーストリア連邦政府は保守的なキリスト教社会党に支配され、社会不安や大恐慌による経済難を克服することができなかった。さらに、オーストリア・ナチズムの勃興は新たな不安を生みだした。キリスト教社会党の首相ドルフスは1933年3月に議会を閉鎖し、すべての権力をにぎる。政府は、陸軍とファシストの準軍事組織である護国団をひきいて34年2月、社会民主党を弾圧し、保守勢力を統合した祖国戦線をのぞいて、すべての政党を廃止した。同年4月、ドルフスは議会政治を廃止し、政府にすべての権限をあたえる憲法を導入したが、7月ナチスのクーデタで暗殺された。 新首相シュシュニックのもとで体制はますます弱体化したが、イタリアの独裁者ムッソリーニは約束をまもり、とりあえず現状は維持された。しかし、それも1936年のローマ・ベルリン枢軸の設定までであった。シュシュニックはまもなく、オーストリアを「ドイツの州」とすることでヒトラーと合意した。シュシュニックがオーストリアの独立について国民投票を計画した38年、ヒトラーは彼を辞任においこみ、3月12日、ドイツ軍はオーストリアに侵入、オーストリアはドイツに併合される。
1943年10月、アメリカ、イギリス、ソ連の外相は、オーストリアの再建案をしめしたモスクワ宣言に署名した。45年4月、ソ連軍がオーストリアの東部を解放する。5月のドイツの無条件降伏にともない、ドイツとオーストリアの合邦は消滅した。国民議会の選挙が11月におこなわれ、国民党が過半数の議席を獲得した。12月に両院総会で共和国大統領にレンナーが選出され、国民党のフィグルを首相とする連立政権がつくられた。
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