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オーストリア

オーストリア Austria
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項目構成
4 C

連合国の占領

オーストリアは、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連の4カ国によって分割占領され、各地区のドイツ人の財産は、それぞれの占領国に委譲された。

戦争は産業を破壊し、交通とコミュニケーションの機関を分断した。オーストリアの国民は、飢餓など多大の苦難をうけたが、UNRRA(国連救済復興機関)の救援をうけ、1947年半ばには飢餓の危機は回避される。経済の回復は、マーシャル・プランのもとでおこなわれたアメリカの支援によって、48年以降促進された。51年までには工業生産高が戦前のピークをこえ、その後も増大しつづけた。

4 D

主権の回復

1947年からの長い交渉の末に、55年5月、国家条約に調印してオーストリアの主権が回復した。連合国側にとって主要な関心は、ドイツの将来にあった。そのためソ連は、オーストリアにおける戦略上の地位の放棄をしぶった。最終的にソ連の譲歩と引き換えに、オーストリアが「いかなる軍事同盟にも加入せず、領土内に外国基地を設置させない」ことを約束して、条約調印となったのである。

この条約は、オーストリアとドイツの併合を禁じ、オーストリアが核兵器や誘導ミサイルなどを所有または生産する権利を否定するものだった。すべての占領軍が1955年10月までに撤退し、議会はオーストリアの軍事的中立をちかう法律を採択した。同年12月には国際連合のメンバーとなった。

5

第二共和国

1945~66年、オーストリアは社会党と国民党の連立政権によって統治された。連立体制は、工業や労働問題、農業といった経済的側面にも拡大され、独自の市場経済を生みだした。発電所と製油所などの国営化は経済的繁栄をもたらし、政府は銀行も統制する。戦時中の破壊からの国家の再建といった経験、東西の架け橋として特別な立場からえる国際的名声、これらを共有することを基盤に、オーストリアの国民意識は発展した。

1950年12月、レンナー大統領が死去し、社会党のケルナーが後任となる。70年まで、社会党から大統領が、国民党からは連邦首相が選出された。56年、59年、62年の国民議会の選挙で、両党の勢力関係にはほとんど変化がなかった。

1960年、オーストリアはEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)の設立協定に調印した。61年7月、EEC(ヨーロッパ経済共同体)と連携してもオーストリアの軍事的中立は確保できるとの判断から、EECとの連携を発表。72年にEECとの自由貿易協定に調印した。

5 A

クライスキー政権

1966年までつづいた連立政権が崩壊したのち、しばらく国民党の単独政権となったが、70年3月の選挙では社会党が辛勝する。この勢いをかって翌年の総選挙で大勝した社会党は、第3党の自由党の協力をえて、党首クライスキーを首班にオーストリア初の社会党単独政権を樹立した。12年におよぶクライスキー政権下では、多くの社会改革と労働改革がおこなわれ、近代化がすすみ、生活水準が向上した。クライスキーの外交手腕によって、オーストリアは国際舞台においても高い地位を確立する。

その一方、クライスキーの人気と業績にもかかわらず、環境問題、金融スキャンダル、増税、とりわけウィーン近郊の原子力発電所建設問題をめぐって反発もまねいた。1978年の国民投票で反核勢力が勝利し、政府は完成間近なプラントを廃棄するにいたった。クライスキーは、社会党が総選挙で過半数をわった83年に辞任した。

5 B

社会党(社会民主党)と国民党の大連立時代

1983年、社会党のジノワッツは自由党との連立政権を成立させたが、この連立は、自由党の右傾化により86年に崩壊する。公共部門における管理ミスと解雇が、民営化をめぐる議論とあいまって、社会党政府に対する不満をつのらせた。86年の大統領選挙では、国民党の候補者、国連事務総長をつとめたワルトハイムが、第2次世界大戦中のドイツ陸軍での自身の行動について虚偽をのべたと非難されたにもかかわらず、勝利をおさめた。

1986年11月の総選挙後、ジノワッツ首相は辞任し、社会党のフラニツキが国民党との連立で首相に就任する。フラニツキ政権は、公共部門の削減、赤字財政、ワルトハイム選出に対する国際的批判に対処しなければならなかった。90年、社会党は党名を社会民主党にかえている。92年には、国民党のクレスティルが大統領にえらばれた。94年にオーストリアのEU加盟が欧州議会で採択され、国民投票での承認をへたのち、95年1月1日、オーストリアはスウェーデンなどとともに正式にEUに加盟、同年4月には、EU域内での国境検問を廃止するシェンゲン協定に調印した。

しかし、1996年のヨーロッパ議会選挙では国民党が第1党となり、社会民主党は、フラニツキ政権の緊縮政策が批判をあびて勢力が大きく後退、さらに、オーストリアのEU加盟後から倒産があいついだことなどから、EU加盟に対する国内での批判も強まり、97年1月フラニツキ首相は辞任、かわって社会民主党のクリマ蔵相を首班とする社会民主党、国民党の連立内閣が発足した。

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