Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
短歌とならぶ日本の伝統詩。俳諧の発句(ほっく)つまり第1句を独立させたもので、原則として5・7・5の3句17字でなりたち、季語をふくむ。広義には江戸時代の俳諧も俳句とよぶが、区別するときには江戸時代のものを俳諧とよび、近代俳句のみを俳句とよんでいる。 17文字というひじょうに短い形式は、感情を切々とうたいあげるより、ものごとを簡潔なイメージに圧縮し、作者の思いを暗示するのに適している。その点で自然現象や年中行事で季節を象徴的にあらわす季語は、俳句にとって重要である。しかし、最近では季語をよみこもうとすると、日本の自然や伝統的な生活からはなれられなくなるため、前衛的な俳人の中には無季俳句をとなえる人々もあらわれた。イメージを簡潔に提示したり、かけはなれた2つのイメージをむすびつけたりする方法は、欧米のイマジズムの詩に通じるものがあるため、海外ではhaikuとよばれる短い詩としてうけいれられている。その場合のhaikuはかならずしも定型や季語を意識していない。 俳句が近代文学のひとつの形式としてみとめられるとともに、多人数の合作である「俳諧の連歌」は連句とよばれ、個性の表現になりえない社交的遊戯として軽視されるようになった。しかし近年、近代芸術の自閉性や独善性が批判され、連句や連句的な創作のあり方がみなおされている。
近代俳句の歴史は、明治時代の正岡子規の俳句革新運動にはじまる。
子規は俳句を新しい時代にふさわしい文学として再生させようとし、庶民的な遊びであった俳諧の卑俗さやマンネリズム、宗匠たちの金儲け主義をきびしく批判した。自分の目で自然をみつめ、それをうつしとる「写生」の重要性を説いたが、連句の否定もそのような近代化の一環であった。
子規の仕事をひきついだのが、河東碧梧桐と高浜虚子であった。子規の革新的な面をおしすすめた碧梧桐の句は、新傾向俳句とよばれ、自然ばかりでなく人間生活を積極的に題材として、定型や季語にこだわらない句をつくるようになった。彼の考えは弟子の荻原井泉水や、井泉水の弟子種田山頭火、尾崎放哉らの自由律俳句にうけつがれる。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |