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Windows Live® の検索結果 1916~96 フランスの第5共和政第4代の大統領。在任1981~95年。フランス南西部のシャラント県で生まれる。文学と法律をまなんだのち、ジャーナリストとなり、1939年からの第2次世界大戦従軍中に、負傷してドイツ軍の捕虜となった。脱走後、対独抵抗運動に参加、44年にド・ゴールの臨時政府で戦争捕虜援護の業務を担当し、46年から国民議会議員となった。47年に復員軍人相となり、以後総理大臣官房副長官、植民地相、国務相などを歴任、さらに、54~55年に内務相、56~57年に法相に就任するなど、第4共和政期を、ほぼ一貫して閣僚としてすごした。 第5共和政下、1959年に民主社会左翼連盟を設立し、65年の大統領選挙では左派野党連合の統一候補としてド・ゴールと対決、敗北したが、左派の指導者としての地位を確立した。71年に社会主義政党が合同して、新しい社会党が生まれると書記長に就任し、72年には共産党と共同政府綱領を作成して、左翼連合を結成した。74年の大統領選挙では、保守連合を代表したジスカール・デスタンと対決したが、僅差で敗北した。 1981年の大統領選挙で、ふたたびジスカール・デスタンと対決して、ついに勝利をえたミッテランは、初の社会党出身の大統領として共産党員4人をふくむ左翼連立内閣を組織し、一部の産業の国有化、社会政策・労働政策関連予算の拡大をおこない、従来からの公約を実行して、貧困層の生活水準引き上げをはかると同時に、70年代半ば以降つづくフランス経済の低迷回復をねらった。しかし、この積極的な政策は、財政赤字や貿易赤字の拡大という結果におわった。 1982年にインフレと失業の拡大に直面したミッテランは、83年以降、賃金凍結、公共支出の削減などを決定して緊縮財政に転じた。この結果、86年の議会選挙で社会党は大きく議席をへらし、過半数の議席を獲得した保守派から選出された首相のシラクと、国政を分担せざるをえなくなった。2年間におよぶ保革共存(コアビタシオン)の時期、大統領は対外政策を、首相は内政を担当する体制がとられた。 1988年の大統領選挙で再選をはたしたミッテランの課題は、フランス経済の建て直しと、80年代末から一気にすすんだ冷戦体制崩壊への対応だった。しかし、第2期ミッテラン政権のもとでも、高い失業率に象徴される経済問題を解決することはできなかった。いっぽう国際的には、核兵器を中心とした強力な軍備によって、90年に再統合をはたしたドイツと対等の発言権を維持することに成功した。 14年間の統治におけるミッテランの成果は、社会主義的な政策によってではなく、ド・ゴールが創始した外交政策によるものであった。1995年の選挙には立候補せず、96年1月8日に死去した。「真実のわが役割」など多くの著作がある。
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