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布教域最大の世界宗教で、人がすむ地球上のすべての大陸に信者がおり、その多くの地域で多数派をなしている。世界の総信徒数は17億人をこえる。 プラトン主義であれ、マルクス主義であれ、フロイト主義であれ、民主主義であれ、すべての信念と価値の体系がそうであるように、キリスト教もまた多くの点で、「内側から」しかわからない。すなわち、その信念を共有し、その価値にしたがって生きることを熱望する人々にしか理解できない。この「内側」の側面を無視した記述は、歴史的に誠実とはいえないだろう。しかしながら、内側にいる人々が、その信念と価値の体系をかならずしもただしく認識しているとはかぎらない。それゆえ、関心はもつが見解を共有しない、あるいは共有できない観察者にとっても有意義な仕方で、それらの信念と価値の体系について論ずることは可能だろう。
キリスト教とはひとつの共同体であり、ひとつの生き方であり、ひとつの信念体系であり、ひとつの典礼的行事であり、ひとつの伝統であり、それらすべてであって、かつそれ以上のものである。キリスト教のこれらの側面はそれぞれ、ほかの宗教との類似性をもっているが、同時に、まぎれもなくキリスト教独自の特色となっている。それゆえ、キリスト教の思想や諸制度を比較宗教学的に、すなわちほかの宗教の思想や諸制度と関連づけながら検討することが必要であり、不可欠でさえあるが、他方で、キリスト教独特の諸要素を探究することも同様に重要である。
キリスト教のように複雑で生き生きとした現象は、論理的に定義するよりも歴史的に描写するほうが容易である。しかしそのような歴史的な描写は、同時に、その中にある不変の諸要素と、本質的な諸特性をも明らかにするものでなければならない。そのような本質的な要素のひとつに、イエス・キリストという人格の中心性があげられる。この中心性は、どのような仕方であるにせよ、歴史上多種多様なキリスト教の信仰と宗教生活のあり方のすべてに共通する特色である。 もちろん、イエス・キリストがいかなる点で特別であり、無比な存在であるのかという点について、すべてのキリスト教徒の見解が一致しているわけではない。しかし、イエスの生涯とその模範的行動が追随されるべきであり、愛と交わりについてのイエスの教えが人間関係の基盤であるべきだ、という点については全員が同意するにちがいない。 イエスの教えの多くは、ユダヤ教のラビの言葉やソクラテスの知恵や孔子の金言によく似ている。キリスト教の教えでは、もちろんイエスはもっとも偉大な説教者であり、道徳的生活の最高の模範である。しかしほとんどのキリスト教徒にとって、そのことだけでは、イエスの生涯と業(わざ)の意義をただしくのべたことにはならないのである。 イエスについて歴史的に知られているのは、新約聖書(聖書)の4つの福音書にかたられたことである。新約聖書のほかの部分には、原始キリスト教の信仰が要約的にまとめられている。パウロや新約聖書の「手紙」の著者たちは、イエスが人間としてのもっとも完全な生き方をしめした人物であるだけでなく、神的実在そのものの啓示者だったと信じている。
宗教によってさまざまな名前でよばれる、宇宙の究極的な神秘は、イエスの言葉の中では「父」とよばれている。それゆえキリスト教徒は、イエス自身を「神の子」とよぶ。少なくとも、イエスの言葉と生涯には、神とのしたしい間柄や、神との直接的な交わりの意識がしめされている。そこにはまた、信仰者であれば、自分たちの生き方と行為を通じて、天において父の生にあずかることができ、彼ら自身が神の子になることができる、という約束がふくまれている。初期のキリスト教徒は、イエスの磔刑と復活を、人類を神と和解させるための行為として意味づけた。このことから十字架は、キリスト教における信仰と祈りの中心となり、父なる神の救いをもたらす愛の第一の象徴となった。
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