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  • ポンペイ - Wikipedia

    この項目では、 イタリア の 世界遺産 について記述しています。 カンパニア州 のコムーネについては「 ポンペイ (イタリアのコムーネ) 」を、 ミクロネシア連邦 のポンペイについては「 ポンペイ島 」をご覧ください。

  • イタリア ポンペイ を訪ねて

    中学校時代「ポンペイ最後の日」という小説を読み火山の恐ろしさを感じると同時に行ってみたいと思ったものの、その国がイタリアであると知ったとき、そんな遠い国では行く機会もないのではと、当時は思っていた。

  • ポンペイ島 - Wikipedia

    ポンペイにおけるドイツの植民地政策は、当初は コプラ 産業の振興等、経済発展を視野に入れた懐柔政策だったものの、次第に伝統への介入・否定や、インフラ整備のための強制労働の法制化等、締め付けの厳しいものになり、住民の不満が高まっていった。

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ポンペイ

ポンペイ Pompeii
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

イタリア南部、ベズビオ山のふもとにあった古代都市遺跡。都市は前600年ごろイタリア先住の山岳民族オスク人が建設、のちサムニウム人によって征服されサムニウム同盟の一部になった。前80年、古代ローマの独裁者スラのときローマの植民地となる。そして紀元前後、裕福なローマ人たちの人気リゾート地となり水道・舗装路・商店などもととのい、人口は約2万人に達した。サルノ川の河口にある港町で重要な交易地でもあった。

後63年におこった大地震でかなり大きな被害をうけ、79年8月24日のベズビオ山の噴火によってヘルクラネウムとともに埋没した。噴火による大量の火山灰火山泥流のためサルノ川の流れや海岸線もかわり、ポンペイからかなりはなれてしまった。死者はおよそ2000人といわれている。

II

考古学的な出土品

ポンペイは1748年に発掘がはじまるまでほぼ1700年間、うもれたままだった。18世紀中の調査でその重要性が世界に注目されるようになり、19世紀から組織的な発掘がおこなわれ、現在までに約8割がおわっている。

ポンペイの遺物は、噴火が一瞬のうちに神殿・劇場・浴場・商店・住居や住人をうめたため、おどろくほど保存状態がよい。また雨をふくんだ火山灰が石膏(せっこう)の鋳型のようになり、犬や人間の死体が土にかえったのちに、死んだときの姿を永久にとどめることになった。その中には、にげたり自殺したりできないように鎖でつながれた剣闘士(グラディアトル)もみつかっている。現在、これらの何体かに石膏がながしいれられ、その姿が復元されてポンペイのマリーナ門近くの博物館に展示されている。

住民の多くは家財道具をもって避難した。そして噴火後、高価な物のほとんどをもちだし、建物からは大理石をとりはずした。そのためあまり高価な品は出土していないが、広場をかこんでたつアポロン神殿やウェヌス神殿、剣闘士をたたかわせた円形劇場、大小の劇場などの公共施設や、多くの住宅が発掘され、当時の町割りや建築様式が判明した。室内の壁画によって埋没以前約2世紀間の絵画様式の変遷も解明された。また日常の食生活や装身具、家庭の信仰などを知ることができた。アレクサンドロス大王をえがいた床モザイク画や壁画・彫刻などの出土品のほとんどは現在、ナポリの国立考古美術館に移管されている。

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