![]() |
Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
古代バビロニアの中・南部をさす地名で、現代のイラク南部にほぼ相当する。前3千年紀初期には、シュメール語でキエンギ(ル)、アッカド語でシュメールとよばれた。シュメールという語は同時に、世界最古といわれるこの地でさかえた文明(→ メソポタミア)や、その文明をつくりあげた民族や言語もさす。初期のシュメールの歴史は、後世の粘土板(→ 粘土板文書)の神話的な記述にみることができるが、碑文などの考古学的な証拠をともなって具体的に王の実在などを証明できるのは、ほぼ前2500年以後である。 この地には、ウバイド人(→ ウバイド文化)が前5千年紀に定住しはじめた。彼らの文明はしだいに発展し、ウル、ウルク、ラガシュ、アダブ、エルドゥ、キシュ、ニップールといったシュメールの主要な都市の原型をつくりあげた。ついで数世紀後に、シリアやアラビアの砂漠からセム系の人々が流入しはじめた。 さらに前3250年ごろ、別の民族が移りすみ、先住民とまざりあった。シュメール人として知られるようになるこの人々は、系統が不明な膠着語をはなし、また民族的にも不明な点が多く、彼らがどこからやってきたかについても定説はない。しかし、メソポタミア北部からきたとする説が有力である。シュメール人が移りすんだあと、国土はいっそう豊かになって都市が発達し、芸術や建築、工芸品のほか、宗教的、倫理的な思想も発達した。シュメール語がひろくはなされるようになり、人々は楔形文字をつかって粘土板に文字を書いた。楔形文字はその後2000年にわたって中東地域で使用されることになる。
粘土板の記録によると、シュメールの最初の支配者は都市国家キシュの王エタナ(前2800頃活躍)で、記録には、「すべての土地を安定させた男」と記されている。彼の治世がおわるとすぐに、メスキアガシェが、キシュよりもずっと南のウルク(聖書ではエレク)に、対抗する王朝を創立した。メスキアガシェは領土を拡大させ、地中海から現イラン西部のザグロス山脈までの地域を支配したとつたえられている。その息子エンメルカル(前2750頃活躍)は、メソポタミア北東部にあった都市国家アラッタまではるばる遠征した。エンメルカルのあとは将軍のルガルバンダがついだ。エンメルカルおよびルガルバンダの業績や征服物語は、一連の叙事詩の主題となり、初期シュメールの歴史を知るうえで重要な資料となっている。 ルガルバンダの支配がおわると、キシュのエタナ王朝エンメバラゲシ(前2700頃活躍)がシュメールの支配者となった。彼の重要な功績は東のエラム国に勝利したこと、ニップールにシュメールの主神エンリルの神殿をたてたことである。これによってニップールはしだいにシュメールの宗教的、文化的な中心となっていった。エンメバラゲシの子アガ(前2650頃没)は、ウルの王メスアネパダ(前2670頃活躍)にやぶれ、エタナ王朝最後の王となった。 ウルの王メスアネパダは、いわゆるウル第1王朝の創始者で、ウルをシュメールの首都の地位におしあげた。メスアネパダの死後まもなく、ギルガメシュ(前2700頃~前2650頃活躍)のもとでウルの近くにあった都市国家ウルクが政治的な主導権をにぎった。ギルガメシュの活躍は、人類最古の叙事詩とされる「ギルガメシュ叙事詩」など、多くの物語や伝説になっている。 前2500年直前のシュメール国家は、アダブの王ルガルアンネムンド(前2525頃~前2500頃活躍)のもとで領土をひろげ、ザグロス山脈からタウロス(トロス)山脈まで、そしてペルシャ湾から地中海までを支配下においた。その後、帝国はキシュの王メシリム(前2500頃活躍)によって支配されたが、彼の死後シュメールは衰退しはじめ、都市国家どうしで互いにはげしい戦争にあけくれた。ラガシュの支配者エアンナトゥム(前2425頃活躍)はシュメール全土をまとめ、さらに近隣諸国も領土にくみいれたが、統治期間は長くなかった。彼の何人かの後継者のあと、王位についたウルイニムギナ(ウルカギナ。前2365頃活躍)は、多くの社会改革を実施したことで知られている。しかし、隣の都市国家ウンマの支配者ルガルザゲシ(在位、前2370頃~前2347頃)にやぶれ、その後20年間は、ルガルザゲシがもっとも強力な支配者となった。 これらの都市国家には、大工・陶工・金細工人・鍛冶工・毛織職人などの専門技術者がいて、肥沃(ひよく)な土地では農業・牧畜業が発達、住民の暮らしは豊かだった。すでにビールがつくられていたことも知られている。 全体としてシュメールの力が弱まり、多民族の侵略を食いとめることができなくなっていたところへ、セム人の指導者サルゴン(在位、前2335頃~前2279頃)が、メソポタミア南部をすべて征服し、北部のアガデを首都にえらんだ。シュメール北部にすんでいた人々と、征服者であるセム人はしだいにまざりあってアッカドとよばれるようになり、この地方の呼名も、シュメールからシュメール・アッカドになった。
アッカド王朝は百数十年つづいた。国王は「四方世界の王」とよばれ、ひろく世界貿易にのりだした。サルゴンの孫ナラムシン(在位、前2255頃~前2218頃)の時代をすぎると王権は弱まり、第5代シャルカリシャリ王のときにザグロス山脈の好戦的な民族グティ人がアガデの町を破壊し、やがてシュメール全土を征服した。数世代のちにシュメール人はグティ人の束縛をのがれ、都市国家ラガシュが、グデア王の治世によってふたたび勢力を回復した(在位、前2144頃~前2124頃)。グデアは敬虔(けいけん)で、有能な王として知られ、数多く発掘されている彫像によって、シュメール人の中で今日もっともよく知られた存在となっている。シュメール人がグティ人の支配を完全に脱したのは、ウルクの王ウトゥヘガル(在位、前2120頃~前2112頃)がグティ人をうちやぶったときで、その功績はのちのシュメール文学の中でたたえられている。 ウトゥヘガルの将軍だったウルナンム(在位、前2113~前2095)がウル第3王朝の創始者となった。有能な軍人であると同時に社会改革者でもあったウルナンムは、法典をつくったことでも知られる。ウルナンム法典は、有名なバビロニアのハンムラピ王の法典より3世紀前のもので、知られているかぎり世界最古の法典である。ウルナンムの子シュルギは、やはりすぐれた軍人であると同時に外交にもたけ、文学の擁護者でもあった。彼の治世下、王立の学校は重要な役割をはたした。 前3千年紀の末期、西部の砂漠からきたセム系遊牧民のアモリ人が、王国に侵入し、しだいにイシンやラルサといった重要な都市の支配者層になっていった。その結果、政治的な崩壊や混乱が国内にひろがり、東方のエラム人がウルの町を攻撃し(前2004頃)、ウル第3王朝の最後の王イビシン(在位、前2029~前2004)を捕虜としてつれさる事態まで発生した。 ウル第3王朝崩壊後は、シュメール・アッカド地方の支配をめぐり都市国家どうしの戦いがはじまった。初期にはイシンとラルサの間で、のちにはラルサとバビロンの間で戦いはくりひろげられたが、バビロンのハンムラピ王が前1763年にラルサのリムシンをやぶり、シュメール・アッカドの単独の支配者となった。これをもってシュメール人国家はなくなるが、彼らの文明はほぼ完全にバビロニア人にうけつがれた。
シュメールの最初の発見となるおもな発掘は、1842年から54年にかけてアッシリア地域のニネベ、ドゥル・シャルキンなどで、フランスの考古学者ボッタやイギリスの考古学者レヤードらによっておこなわれた。前1千年紀の何千枚もの粘土板が発見されたが、その大部分はアッカド語で書かれていた。このため学者たちは最初、メソポタミアのすべての楔形文字はアッカド語で書かれていると考えた。 しかしイギリスの言語解読学者ローリンソンやアイルランドの牧師ヒンクスは、粘土板の文字を研究した結果、その中のあるものはセム系でない言語であることを発見した。1869年フランス人考古学者オッペールは、たくさんの記述の中にみられる「シュメールとアッカドの王」という王の称号から、「シュメール」という名前を提案し、これを言語にも適用した。 19世紀末から、ラガシュではフランス、ニップールではアメリカによる継続的な発掘がはじまり、そのほかキシュ、アダブ、ウルク、エリドゥ、ウルなどのシュメール都市の発掘もおこなわれた。考古学者たちは各地で貴重な土器や、多数の粘土板を発見し、さらにアッカドのサルゴン王の王宮や、前3千年紀から前550年にいたる多くの遺跡を発掘している。
© 1993-2008 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |