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  • アウグスティヌス - Wikipedia

    アウレリウス・アウグスティヌス ( Aurelius Augustinus, 354年 11月13日 - 430年 8月28日 )は、古代 キリスト教 の 神学者 、 哲学者 、 説教者 、 ラテン教父 とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。

  • 松岡正剛の千夜千冊 『三位一体論』アウグスティヌス

    アウグスティヌスはアフリカ人である。しかし聖アウグスティヌスは「ヨーロッパの教父」となった。アウグスティヌスは少なくとも9年にわたってのマニ教徒だった。しかし聖アウグスティヌスはラテン教父の中の最大の神学者となった。

  • アウグスティヌス - Wikiquote

    [編集] アウグスティヌス 弁論術者、キリスト教神学者、北アフリカのヒッポの司教。カトリック・東方正教会などで聖人。 [編集] 『告白』 では 時間 とは何か。私に誰も問わなければ、私は[時間とは何かを]知っている。

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アウグスティヌス

アウグスティヌス Augusutinus
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

354~430 西方教会最大の教父で、学徳の高い聖人にあたえられる教会博士の称号をもつ。ヌミディアのタガステ(現アルジェリアのスーク・アハラス)生まれ。父パトリキウスは異教徒だった(のちにキリスト教に改宗)が、母モニカは敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、アウグスティヌスの改宗のために心をくだき、カトリック教会に列聖されている。アウグスティヌスは北アフリカのタガステ、マダウラ、カルタゴで修辞学の教育をうけた。15歳から30歳までカルタゴの女性と同棲(どうせい)し、372年に息子をもうけ、ラテン語で「神の贈り物」を意味するアデオダトゥスと名づけた。

II

知的苦悩

ローマの雄弁家で政治家のキケロの哲学的対話編「ホルテンシウス」に感銘をうけ、アウグスティヌスは真理の探究にいそしんだ。キリスト教徒になることを考えたが、それは長年にわたりさまざまな哲学体系をまなんだ末のことだった。373~382年の9年間は、ペルシャのマニが説いた二元論哲学のマニ教を信奉した。

当時西ローマ帝国でひろく信奉されていたマニ教は、アウグスティヌスにとって自らの葛藤(かっとう)にこたえる、すばらしい哲学的・倫理的体系に思えた。そのうえ、マニ教の道徳律の厳しさはそれほど不快感をあたえなかった。のちにアウグスティヌスは自著「告白」の中で、「われに性的禁欲と自制をあたえよ。だが、いましばらくのちに」と書いている。しかし、やがて教義の矛盾に行き詰まりを感じ、マニ教をすてて懐疑主義に転じた。

383年ごろ、カルタゴをでてローマにわたったが、1年ほどでミラノにうつり、大学で修辞学をおしえた。この地で新プラトン主義の影響をうけると同時に、当時のイタリアでもっとも高名な聖職者だったミラノの司教アンブロシウスにであった。

やがて彼は、ふたたびキリスト教にひかれるようになる。彼自身の回想によると、ある日、子供のような声が「とりあげて読め」とくりかえすのがきこえた。彼はこれを、神が聖書をひらいて、目にはいったページを読めと命じているのだと解釈した。聖書をひらくと、「ローマの信徒への手紙」の13章13~14節が目にはいった。そこには「……酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみをすて、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心をもちいてはなりません」としるされていた。

アウグスティヌスはただちに回心してキリスト教を奉じる決意をした。387年の復活祭の前夜、息子とともにアンブロシウスから洗礼をうけた。イタリアにきていた母は、祈りが通じ、願いがかなえられたことをよろこんだ。その後間もなく、母はオスティアで死亡した。

III

司教として、神学者として

アウグスティヌスは北アフリカにもどり、391年に司祭に叙任された。395年には、ヒッポ(現アルジェリアのアンナバ付近)の司教になり、死ぬまでこの職をつとめた。この時期は政治的にも宗教的にも不穏な時代だった。西ゴート人が西ローマ帝国に侵入、410年にはローマをうちまかし、いっぽう教会は分裂と異端におびやかされていたのである。

アウグスティヌスは神学論争に全身全霊をかたむけてとりくんだ。マニ教の異端とたたかうほかに、2つの大きな神学論争にかかわった。ひとつはドナトゥス派との論争で、彼らは秘跡をほどこす司祭が人格者でないかぎり、その秘跡は無効であるとした。もうひとつはペラギウス派との論争だった。ペラギウス派はイギリスの修道士ペラギウスの信奉者で、原罪を否定していた。長くはげしい論争をつづける中で、アウグスティヌスは原罪と神の恩寵、神の至上性、予定説などの教義を発展させていった。

宗教改革の指導者であるカルバンルターも、アウグスティヌスの思想をまなびとっており、カトリックとプロテスタントの教理はどちらもアウグスティヌスの純粋に神学的な側面をもとにしている。カトリック教会はとくにアウグスティヌスの制度尊重と教会中心主義の教義を支持している。

アウグスティヌスの教義はペラギウス派とマニ教という両極の中間にあった。人間は自分の力ですくわれるとするペラギウス派の教義に対して、アウグスティヌスは、不服従の精神から人間は罪人(つみびと)となり、人間としての本性ではそれをかえることはできないとした。彼の理論によれば、神の恩寵をあたえられてこそ、人間はすくわれるのだという。いっぽうマニ教に対しては、神の恩寵と協同する人間の自由意志のはたらく場があることを強く主張した。アウグスティヌスは430年8月28日にヒッポで没した。彼の祝日は8月28日。

IV

作品

なみいる教父や教会博士の中でアウグスティヌスが占める位置は、使徒の中のパウロの位置に匹敵する。アウグスティヌスは多作で、説得力のある名文家だった。

もっとも有名な作品は、自伝的な「告白」(400頃)であり、自らの前半生と改宗について赤裸々にしるしている。キリスト教の弁証論「神の国」(413~426)では、神学的な歴史哲学を集成した。22巻からなるこの大著のうち、10巻は汎神(はんしん)論に対する議論にむけられ、残りの12巻は教会の起源、発展、将来をたどり、教会が偶像崇拝にとってかわるべきものだとしている。428年にあらわした「再論」では、初期の自著の中の誤りを、成熟した判断でただし、まとめなおした。

386~429年の間に書かれた270編の手紙は、ベネディクト修道会版の「書簡集」におさめられている。論文には、「自由意志論」(388~395)、「キリスト教教理」(397)、反ドナティスト論の「洗礼論」(400)、「三位一体論」(400~416)、「自然と恩寵」(415)および聖書のいくつかの書についての「説教集」などがある。

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