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1917~63 アメリカ合衆国第35代大統領。在任1961~63年。激動の1960年代初頭、最年少、初のカトリック教徒の合衆国大統領として注目をあびたが、任期中の63年に暗殺され、世界じゅうの驚きと哀悼をうけた。 1917年、マサチューセッツ州ブルックラインに、銀行家ジョセフ・P.ケネディの次男として生まれる。父はフランクリン・ルーズベルト大統領政権の駐英大使をつとめた。40年にハーバード大学を卒業。第2次世界大戦への準備不足を指摘した卒業論文、「イギリスはなぜ眠っていたか」で注目される。太平洋戦争がはじまると海軍に志願、魚雷艇の艇長となりソロモン沖海戦で撃沈されたが、部下を救助する武勲をたてた。 戦後、民主党に入党したケネディは1946年、マサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬して当選。52年には上院議員に選出された。53年、ジャクリーン・ブービエと結婚。57年には英雄的政治家の伝記「勇気ある人々」をあらわし、ピュリッツァー賞を受賞した。 1960年の大統領選挙では、リベラル派を代表して立ち、選挙参謀に弟ロバートら、才能ある若い政治家をすえて、指名を獲得。彼らは、大衆や進歩的知識人の関心をよぶニュー・フロンティアをスローガンにかかげるなど、巧みな選挙運動を展開した。共和党大統領候補ニクソン副大統領とのテレビ討論では、防衛・経済問題がとりあげられ、ケネディは落ち着いた若々しい話しぶりで、新指導体制の必要性をうったえ、わずかの差で勝利した。
ケネディは就任演説で理想主義をかかげ、「国家があなたに何をしてくれるかをたずねるのではなく、あなたが国に対して何ができるかを自問してほしい」と、熱をこめてかたった。 1961年の就任早々、国際関係でつまずいた。4月、前政権からひきついだキューバのカストロ体制打倒をはかるキューバ難民によるキューバ侵攻(ピッグス湾事件)が失敗した。また、ラオスが共産主義反政府勢力の脅威にあるのを懸念し、ウィーンでソ連のフルシチョフ首相と会談、ラオスの中立化で合意、ベルリン問題も討議するが、フルシチョフの強硬姿勢をくずせず、米ソの緊張緩和はならなかった。8月、東ドイツ当局によって東西ベルリンをへだてる壁が構築されると、アメリカ軍を増強し、西ベルリンへの通行権を確保した。その後、東ベルリンから西ベルリンへの通行は政府・軍関係者以外は事実上、不可能となった。9月、ソ連の大気圏内核実験再開で、冷戦はいよいよ深まっていく。
1962年10月、ソ連がキューバに中距離核ミサイル基地を建設していることが発覚。10月22日、ケネディは声明で、キューバを海上封鎖し、ミサイルの搬入を阻止するとのべ、ソ連にミサイルを解体・撤去するよう要求した。フルシチョフとの交渉で、10月28にソ連は撤去を発表、封鎖は解除され、アメリカにキューバ侵攻の意思がないことをしめしたため核戦争の危機はさけられた。これは、ケネディとアメリカにとっての政治的勝利ともいえた。→ キューバ危機 1963年、ケネディの外交政策は好転する。ヨーロッパを歴訪、西ベルリンではあたたかくむかえられ、西ドイツ支援の継続を表明した。6月の外交方針演説では、冷戦終結をよびかけ、米ソ平和共存政策を強調してモスクワとワシントン間にホットラインを設置し、危機の回避につとめた。8月には、米英ソ3国との部分的核実験停止条約の調印にこぎつける。ラテンアメリカへの援助計画、「進歩のための同盟」も評価をえた。しかし、中国との関係正常化にはいたらず、南ベトナム情勢の悪化で、軍事顧問団1万6000人のアメリカ軍を派遣した。
ケネディは、あふれる才気と魅力で国内外で人気をあつめたが、議会との関係はよくなかった。1963年には経済刺激策・税制改革・社会福祉拡大などの提案が、議会の各委員会で紛糾する。しかし、大統領職権により、62年4月には大手鉄鋼会社の値上げを撤回させ、また宇宙開発競争を促進。人種統合教育に反対する南部の動きにはすばやく対応し、同年9月、連邦裁判所がミシシッピ大学に黒人学生の受け入れを命じておきた暴動では、鎮圧のため連邦軍を派遣した。63年にもアラバマ州バーミングハムでキング牧師が指導して人種差別廃止をもとめるデモがおきたとき、支援のため連邦軍を派遣している。同年、ケネディは公民権強化のため、議会への特別教書で公共施設や学校での人種差別廃止に関する提訴権限を司法省にあたえるよう要請した。
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