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現在のメキシコの地には、1万数千年前から人間が居住し、農耕は前8000年ごろからはじまったと推定されている。最初に都市をつくったのはオルメカ文化の人々で、前1200~前300年に繁栄した。6世紀ごろにはユカタン半島でマヤ文明が最盛期をむかえた。
10世紀、北方からトルテカ人が侵入してアナワク高原に王国をきずいたが、11世紀にはチチメカ人におわれた。12世紀、北方からナワ人の7集団が連合してアナワク高原に侵入。その統率集団だったアステカ(メシカ)は1325年、テスココ湖の湿地に居住地をさだめ、その地をテノチティトランと命名した。初代国王イツァコアトルのもとで王国は勢力範囲を高原全域に拡大し、15世紀までに中部および南部メキシコを支配する。アステカ文明はトルテカとチチメカの文明をもとにしたもので、スペイン人による征服までつづいた。 1517年、コルドバがヨーロッパ人としてはじめて到着し、ユカタン半島のマヤ遺跡を発見した。翌年、グリハルバが東海岸を探検してアステカ王国の情報をもたらす。19年、キューバにいたスペイン植民地総督ベラスケスは、コルテスに命じて部隊を派遣し、アステカ軍をやぶって21年にテノチティトランを制圧した。以後、スペイン植民地時代となる。
スペイン植民地時代は1521~1821年の300年間にわたる。この間、植民地ヌエバエスパーニャ領は、現在のアメリカ合衆国のテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア州などまで拡大した。 スペインに征服されたのち、先住民は鉱山開発などの労働力として動員された。スペイン人貴族、聖職者、軍人らに土地と住民の支配権をあたえるというエンコミエンダ制(植民地荘園制)の中で、先住民は過酷な労働を強制され、天然痘などの流行もあって人口が激減した。 16世紀には、ローマ・カトリック教会のフランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会などの宣教師たちが布教活動をおこなった。教会は遺贈、寄贈によって富をふやし、国の資産と土地の3分の1を占有した。教会財産が国有化されたのは1859年のことである。 植民地時代には人種間での混血がすすみ、複雑な社会階級制が生まれた。社会階級は先住民、メスティソ(人口が急増)、黒人奴隷、自由黒人、白人とわかれ、さらに白人もペニンスラール(スペイン本国生まれ)とクレオール(白人だが植民地生まれ)にわかれた。スペインからおくりこまれたペニンスラールは行政や教会機構で重要な役職を独占し、クレオールを蔑視(べっし)した。こうしたクレオールらの不満にくわえて、植民地行政における官吏の腐敗、1789年のフランス革命後ヨーロッパから入った自由主義思想などを背景として、19世紀初めに独立への気運が高まっていく。 ヨーロッパではナポレオン軍がスペインに侵攻、これをきっかけに植民地と本国との断絶がはじまった。1808年、クレオールらの圧力をうけた副王(→ 副王制)は彼らの行政参加を承認した。これに対してペニンスラールらが異議をとなえて副王を追放するなど政治的混乱がおこり、こうした中でメキシコ民衆の独立運動が展開された。
1810年9月16日、ドロレスという小村の司祭イダルゴは、先住民の過酷な労働と身分差別の撤廃をもとめて反乱をおこしたが、11年に王党派によりチワワで処刑される。独立運動はモレロス司祭がひきつぎ、14年にスペインからの独立と共和制の宣言がおこなわれたが、翌年モレロス軍はイトゥルビデ将軍ひきいる王党派軍に敗北した。独立運動はゲレーロの指導で継続するが、規模の縮小を余儀なくされた。 1820年に本国スペインで自由主義革命がおこると、メキシコの保守派は動揺し、本国からの分離を画策した。イトゥルビデはゲレーロと同盟し、「独立と君主制の樹立」「国教としてのローマ・カトリック」「スペイン人とクレオールとの平等」をかかげたイグアラ綱領を発表。21年、メキシコはスペインからの独立を達成した。
1822年、イトゥルビデはクーデタによって皇帝アグスティン1世として即位したが、10カ月後には反乱がおこり失脚した。24年、憲法が制定され共和国が樹立されたが、保守派である中央集権主義者(教会勢力、大土地所有者、クレオール、軍人ら)と、自由主義、反教会派からなる連邦主義者との間で抗争がはじまる。33年、軍の支持をうけた中央集権主義者のサンタ・アナが大統領に就任した。
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