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メキシコ

メキシコ Mexico
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第2次世界大戦と戦後

メキシコはアメリカとの協力政策にもとづき、1941年にイタリア、ドイツ、日本と断交、42年5月に宣戦を布告した。同年6月には国際連合の設立にくわわり、経済、軍事面でアメリカとの協力態勢を強化するとともに、国内の産業育成や工業化を推進した。

1946年、ミゲル・アレマンが大統領に就任する。アレマン政権は、49年に外国企業にペメックス管理下での石油採掘を許可する一方、貿易不均衡解消のためペソ切り下げなどを実施した。49年の総選挙では、3年前にPRI(制度的革命党)と改称した与党が勝利し、翌年には外資に対する規制がさらに緩和された。

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現代のメキシコ

1952年、PRIのコルティネスが大統領に就任し、以後PRIの長期政権がつづく。翌年、婦人参政権が成立。58年からのマテオス政権のもと、62年には企業の利益を労働者に分配することを規定した法律が成立した。

1964年からのオルダス政権では、外交面で不干渉主義を表明、米州機構が同年に採択したキューバとの断交決定にしたがわなかった。オルダスは66年に5カ年計画を発表して経済開発を推進、翌年には近隣国との経済提携をはかるため中央アメリカ諸国を歴訪する。しかし、国内では貧富の格差が拡大して反政府運動が高まり、オリンピック開催直前の学生暴動は弾圧された。

1970年からのエチェベリア政権では、バランスのとれた経済発展と輸出の増大をめざし、ラテンアメリカ諸国、カナダ、EC(ヨーロッパ共同体。EUの前身)、ソビエト連邦(ソ連)などとの経済協力がはかられた。70~74年に経済は順調に発展したが、75年に入って停滞し、翌年にはペソの切り下げが実施された。この政権下で南部諸州で油田が発見される。

1976年からはロペス・ポルティーヨ政権となり、緊縮財政により経済はかなり改善されたが、インフレは高率のまま推移した。70年代にメキシコの石油生産量は倍増し、石油供給国としての重要性は増大した。

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金融危機

1982年からのデ・ラ・マドリ政権では、石油価格の急落から累積対外債務が急速に悪化し、金融危機におちいった。85年には大地震が発生し、経済状況はさらに悪化した。

1988年、PRIの不正選挙に対する批判の嵐の中で、同党のサリナスが大統領に就任した。同年、大規模なハリケーン災害が発生する。経済の復興をめざすサリナス政権は、89~93年に80%の国営企業を民営化した。外資規制も緩和され、100%外国資本の企業も誕生。92年6月には憲法を修正し、17年の憲法制定以来、教会に課せられていた規制を廃止した。同年12月には、貿易と外資導入の拡大を目的にアメリカ、カナダとの3国間でNAFTA(北米自由貿易協定)を締結、NAFTAは94年1月1日に発効した。

NAFTA発効の同日、先住民のサパティスタ民族解放軍(EZLN)が協定に反対して南部のチアパス州で武装蜂起し、サリナス政権に改革要求をつきつけた。サパティスタの名は、19世紀の革命指導者で農地改革をおこなったサパタに由来する。政府は、前メキシコシティ市長カマチョ・ソリスを代表者としてEZLNと交渉をはじめた。

1994年の大統領選挙では、PRIのコロシオ候補がティフアナ市で暗殺される悲劇がおこった。後継候補はセディジョで、8月の選挙に勝利した。9月には、PRIの書記長ルイス・マシエウ暗殺事件が発生する。

一方、EZLNは、チアパス州における政府軍の軍備増強や政府の交渉に対する消極的態度を不満とし、1994年10月交渉を中断、12月にはふたたび武力攻勢に出た。政府は国家調整委員会を設立して紛争解決にのりだした。

1994年12月、セディジョが大統領に就任した。メキシコはペソの大幅な切り下げと国際信用の低落による経済危機におちいり、チアパス州問題や、コロシオ、ルイス・マシエウの暗殺事件は状況をさらに悪化させた。政府はアメリカやほかの国際金融機関に借款(しゃっかん)を要請した。

コロシオ暗殺事件では、その背後にPRI高官らの存在が明らかとなり、ルイス・マシエウ暗殺事件では前大統領サリナスの関与がうたがわれ、サリナスは国外退去となる。PRI内部の改革派だったコロシオ、ルイス・マシエウの暗殺事件はPRIに大きな打撃をあたえ、ハリスコ州知事選やグアダラハラ市長選でPRIは敗北した。

1995年1月、政府とEZLNの交渉が再開された。断続的な話し合いのすえ、96年2月には先住民の権利と文化の尊重などをふくむ合意文書が調印されたが、その後また対立が生じ、交渉は頓挫(とんざ)した。97年9月、和平対話の中断に抗議してEZLNとその支持者1000人余りがチアパス州から首都に行進し、政治組織「サパティスタ民族解放戦線」を結成した。12月になると、チアパス州で、EZLNを支持する先住民の農民が武装集団に襲撃され、子供をふくめ45人が殺害される事件が発生した。州政府とPRIの事件への関与が明らかになり、98年1月、内相とチアパス州知事が辞任するにいたった。また、ゲレロ州では97年5月に、96年に旗揚げした先住民のゲリラ組織「革命人民軍」と政府軍の間で戦闘がおこなわれた。

1997年7月、連邦下院全議席と上院の4分の1、メキシコシティ(連邦区)市長などの選挙が実施された。下院では、68年間にわたって政権を担当してきたPRIがはじめて過半数をしたまわり、上院では改選議席32のうちPRIの獲得議席は13にとどまった(非改選とあわせると過半数は維持)。はじめて公選となったメキシコシティ市長選では、PRI候補が革命民主党(PRD)候補に大敗し、同市議会選挙では、選出議席40議席中1議席も獲得できず、6州知事選でも2州で敗退する結果となった。

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71年ぶりに政権交代

2000年7月、PRIの「一党支配の是非」を最大の争点とする大統領選挙がおこなわれ、前グアナフアト州知事で、親米右派の野党・国民行動党(PAN)候補のビセンテ・フォックスが大勝した。世界最長政権といわれてきたPRIは、長期一党支配体制の中で、権威主義や利益誘導型の政治がはびこるようになり、貧富の格差は広がり、社会のあちこちに腐敗と矛盾の根が広がっていた。一方勝利したPANは、北部を中心に一部財界やカトリック教会が支持する保守政党で、近年は経済の自由化をとなえるなど、都市部の中産階級にも支持層が広がっていた。

フォックス大統領は12月の就任演説で「7つの改革」を提唱、先住民の権利尊重、世界の人権や女性の権利の重視、さらに貧困対策や教育への取り組みを最優先する姿勢をみせた。翌2001年3月にはEZLNの司令官が先住民の自治や諸権利をみとめる法律の制定をもとめて連邦議会で演説、新政権は4月、憲法改正をもりこんだ「先住民権利法」を議会で通過させた。しかし、この法律は自治権付与の内容などで先住民にとってふじゅうぶんなもので、EZLNはこれを拒否、交渉はふたたび頓挫(とんざ)した。

フォックス大統領の就任当初の意気込みの割には、外交、内政ともに思ったような成果はあがらなかった。アメリカとの関係は親米路線をかかげて積極的な外交をおこなったが、麻薬取り締まり問題でぐらつき、好調だった経済も、アメリカ経済の低迷や同時多発テロ事件の影響をうけて低迷した。アメリカに不法滞在するメキシコ人を合法化する交渉でも、同時多発テロ事件後にアメリカが不法移民取り締まり強化をはじめたために暗礁にのりあげた。

内政では、独占的に石油生産を管理している国営の石油公社ペメックス(PEMEX)の経営改革に失敗、税制改革でも食料品や医薬品へ付加価値税を課す法案が野党PRIの抵抗をうけて頓挫した。2003年7月には連邦下院議員選挙がおこなわれ、与党PANが大幅に議席をへらしたため、フォックス政権はさらにきびしい議会運営を強いられた。03年1月21日、南西部のコリマ州を震源とするマグニチュード7.3の強い地震がおき、死者26人以上の被害が出た。

2004年に入ってようやく、石油価格の上昇もあってメキシコ経済は回復基調をしめし、経済成長は4%をこえた。04年7月にはメルコスール(南米共同市場)への準加盟を要請、翌05年4月1日には日本との自由貿易協定(FTA)が発効した。

2006年7月、フォックス大統領の任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれ、PRDのロペス・オブラドール前メキシコ市長と、与党PANのフェリペ・カルデロン元エネルギー相の事実上の一騎打ちとなった。中道左派のロペス・オブラドールは、医療や教育の無料化などの貧困対策やNAFTAの一部見直しなどをうったえ、カルデロンはフォックス政権の親米的な新自由主義政策を継続して雇用拡大をめざすことや所得税率の引き下げなどを公約した。まれにみる接戦の中、中央選挙管理委員会の集計結果は、0.58%という僅差(きんさ)でカルデロンの勝利となった。しかし、ロペス・オブラドールは「集計時の不正」を理由に票の数え直しをもとめる不服申し立てを連邦選挙裁判所におこない、メキシコシティでは数十万人から100万人ものロペス・オブラドール支持者たちによる抗議集会やデモがあった。

9月、連邦選挙裁判所はカルデロンの当選を宣言、混乱は2カ月余りで収拾にむかった。大統領選挙と同じ日に実施された連邦上・下両院選挙では、PANとPRDは大きく議席をふやし、PANは上・下両院ともに第2党から第1党へとなった。

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