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イタリア北部にあるロンバルディア州ミラノ県の州都、県都。人口はローマにつぐが、商業、金融、工業ではイタリアをリードし、文化と芸術の中心地である。工業地帯にかこまれた近代的な都市で、ビジネス地区には高層アパートやオフィスビルがたちならび、周囲には広大な住宅地区と工業地区が広がっている。1964年には地下鉄が開業した。人口は130万3437人(2007年推計)。 市の中心をなすドゥオモ広場には、白い大理石の巨大なドゥオモ(ミラノ大聖堂)がそびえている。この大聖堂は1386年に着工されたゴシック建築で、16世紀後半に献堂された。未完だった西ファサードはナポレオンによって1805~09年に完成した。ドゥオモ広場の南西方向に、ロマネスク建築のサンタンブロージョ教会(386年建築)がある。この近くには、15世紀のサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会があり、隣接するかつてのドミニコ会修道院の食堂ではレオナルド・ダ・ビンチの有名なフレスコ画、「最後の晩餐(ばんさん)」をみることができる。
ミラノの文化施設のひとつに17世紀の建築のブレラ館があり、ブレラ美術学校、図書館、ブレラ絵画館となっている。アンブロジアーナ館にあるアンブロジアーナ図書館は1609年に開設されたもので、おそらくヨーロッパで最初の公的図書館と思われる。そのほかミケランジェロの晩年の彫刻「ロンダニーニのピエタ」があるスフォルツァ城の美術館や近代美術館など、美術、歴史、自然史のすばらしい博物館があり、国際政治研究所や、オペラで世界的に名高いスカラ座、音楽学校、いくつかの大学がある。
ミラノは化学工業と繊維産業ではイタリアの諸都市をリードしている。そのほか、航空機、自動車、機械やガラス、皮革、ゴム製品、製薬なども重要な産業である。また、出版業や音楽産業、数多くの銀行があつまり、イタリアの主要な株式取引所がある。毎年4月に国際貿易フェアが開催される。
古代にはメディオラヌムとよばれた。ケルト人が建設した町と考えられる。前222年にローマに占領され、その後はローマ帝国のもとで繁栄し、4世紀には西ローマ帝国皇帝の宮殿がおかれた。450年ごろ、アッティラに指揮されたフン族の略奪をうけ、539年にはゴート族に破壊された。8世紀末ごろにふたたび繁栄しはじめた。中世を通じてミラノは大司教に統治されたが、都市の独立性をある程度たもちながら、下層の封建貴族たちはしだいに大司教の世俗的支配から脱していった。11世紀にはそうした貴族たちがミラノを富裕なコムーネ(自治都市)へと変化させた。 1162年、ミラノは神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世の軍隊に破壊された。しかし、すぐに復興し、ロンバルディア都市同盟を結成して、76年にはレニャーノの近くでフリードリヒ1世をうちやぶった。この勝利で新しい繁栄の時代をむかえた。1277年、貴族のビスコンティ家が、領主のデラ・トレ家からミラノの統治権をうばった。ビスコンティ家の支配は1447年までつづいたが、とくに初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ(1351~1402)の時代には繁栄をきわめ、黄金時代をむかえた。 1450年にはイタリアの軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎり、ミラノの統治者としての地位をかためた。つづいて息子ルドビコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ビンチをミラノにむかえた。しかし1500年、フランス軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノをさるがのちに再訪、つごう二十数年の滞在はこの地にミラノ派とよばれる画派を生んだ。スフォルツァ家はフランス、スイス、オーストリアにあやつられながらも支配をつづけた。35年にスフォルツァ家の血筋がとだえると、ミラノはスペインの支配下にはいった。1713年のユトレヒト条約で、ミラノはオーストリアに譲渡された。ナポレオンは96年にオーストリア人をおいだし、ミラノをチザルピナ共和国の首都とした。 1815年、ふたたびオーストリアの支配下にはいったのちは、イタリアの抵抗運動の中心地となり、48年には短期間だがオーストリア人を追放した。59年、フランスの援助をうけたサルデーニャ王国が、ミラノをオーストリアから解放した。61年にミラノはイタリア王国にくわわり、ひきつづき発展した。第2次世界大戦中には、はげしい爆撃をうけた。戦後のミラノでは商業が急速に発展し、町は復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、また国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。
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