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Windows Live® の検索結果 カロリング朝カロリング朝 カロリングちょう Die Karolinger(独):Les Carolingiens(仏)
百科事典項目
7世紀末~10世紀に、メロビング朝のあとをついでフランク王国を支配した王朝。カロリングという名はカール大帝(シャルルマーニュ)の名にちなんだもの。もとはフランス東北部にいたフランク人豪族の家柄だったが、6世紀末にピピン1世がメロビング王家の宮宰となってから実力をたくわえ、7世紀の後半にはメロビング家の力が弱まる中で、実質的なフランク王国の支配者となった。 ピピン1世のひ孫にあたるカール・マルテルが732年にトゥール・ポワティエの戦でフランスに侵入したイスラム教徒をやぶってからは、カロリング家は西ヨーロッパで最強の実力者とされるようになった。メロビング家の内紛と衰退によって西ヨーロッパが政治的に不安定であったため、ローマ教皇はメロビング家の王を廃位することに同意し、751年、カール・マルテルの子ピピン3世がフランクの王に選出された。 ピピン3世の死後、フランクの習慣によって2人の子が平等にあとをついだが、771年からはカールが弟の死によって単独の王となった。このカール大帝の時代にフランク王国の支配領域は西ヨーロッパ全域をふくむものとなり、カール大帝にはローマ教皇の手で西ローマ皇帝の冠がさずけられた。 カール大帝の死後はルートウィヒ1世がフランク王と西ローマ皇帝の位を継承したが、ルートウィヒの死後、3人の子の間に相続争いがおき、843年のベルダン条約でフランク王国は3分割されることになった。このうち、東フランクは現在のドイツの、また西フランクはフランスの起源である。長男のロタール1世が獲得した中間部には現在のベネルクス三国とスイス、イタリアなどがふくまれるが、彼の領土は870年のメルセン条約で細分化され、単独の国にはならなかった。東フランクでは10世紀初頭にカール大帝の血統がたえ、フランスでも987年にカロリング家にかわってカペー家のユーグが王となった。
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