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項目構成
全9州が計65の行政単位にわけられ、さらに505に細分化されている。州の行政には大統領の任命する知事があたる。65自治体の首長と議員は選挙によってえらばれ、任期は4年。
1969~78年には政党活動は禁止されていた。89年の選挙でキリスト教民主党などからなる野党連合が勝利をおさめたが、結果は無効とされた。90年、キリスト教民主党が政治の表舞台におどりでたが、現在はほとんど勢力はない。94年の大統領・国会選挙では、軍政時代にノリエガ将軍をささえた民主革命党(PRD)が大きく勢力をのばした。民主革命党のほか、アルヌルフィスタ党(PA)、自由共和運動党(MOLIRENA)、民主改革党(CD)などの政党がある。
1990年、エンダラ政権が軍部の政治的影響力を完全にそぐための措置として、国軍をいったん解散し、かわって国家保安隊をおいた。94年10月に国会は国軍の廃止を可決した。現在、国家保安隊は国家警察、航空保安隊、海上保安隊からなり、総人員は1万1800人。
パナマの地域を最初におとずれたヨーロッパ人は、スペインの探検家バスティダスで、1501年、カリブ海側のコロン北東にある港町ポルトベロに上陸した。翌年、コロンブスがモスキトス湾沿岸部を探査している。08年、スペインのカスティリャ王フェルナンド5世がパナマ地域一帯をスペインの探検家ニクエサにあたえた。そして13年、バルボアが太平洋岸に達したことにより、パナマは交通の要衝として重視されることとなった。 これにつづく16世紀初頭の数十年間で、スペインはこの地域の支配権を確立した。1530年代、ピサロはここを拠点にペルーのインカ征服をくわだて、のちにこの一帯はペルー副王領にくみこまれた。1718年には、ヌエバグラナダ副王領に編入された。ペルーおよび近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマ地峡を経由した。たとえば銀などはパナマ市まで海路をわたり、同市から陸路をへてポルトベロにはこばれ、そこからガレー船でスペインにおくられた。 16~17世紀には、イギリスの船乗りや海賊がしばしば地峡の交通路を分断し、幹線路両端の拠点を占領するなどして、搬送物の略奪をくりかえした。こうしたイギリス人の中では、ドレークやモーガンがとくに知られる。
1821年、パナマはグランコロンビアの一員としてスペインからの独立を宣言した。しかし、パナマは両大洋間の海上交通の要衝という特別な位置を占めていたため、コロンビアとの関係は安定しなかった。やがてコロンビア支配への不満から、反乱が発生するようになった。とくに40年の蜂起(ほうき)ははげしく、パナマは一時的にコロンビア支配を脱したが、42年ふたたび勢力下にくみいれられた。 アメリカ合衆国は1846年の条約でパナマ地峡の通行権を獲得し、その見返りとしてパナマにおけるコロンビアの主権を承認した。40年代、パナマ地峡はアメリカ東部からオレゴン、カリフォルニアなど同国の太平洋岸に移住する人々の陸橋として利用された。48年、アメリカの会社が地峡横断鉄道の敷設権をあたえられ、50年に着工し、55年に完成した。同年、パナマはコロンビアから大幅な自治権をかちとった。 1863年のコロンビア新憲法により、パナマをふくむ各州は実質的な独立を達成したが、66年、ふたたびコロンビアの直接支配が復活する。コロンビア当局の圧政と腐敗が反感をよび、また地峡運河建設をめぐる交渉の進展状況に不満が高まったため、パナマ側では反乱が頻発するようになるが、いずれも失敗におわった。
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