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パナマ(国)

パナマ Panama
百科事典項目
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独立の達成

1903年11月3日、運河地帯の使用権に関するアメリカ合衆国とのヘイ・エラン条約をコロンビア議会が批准しなかったことから、パナマはコロンビアからの分離独立を宣言し、アメリカはただちにこの共和国を承認した。18日、アメリカはパナマと条約をむすび、運河の建設権と幅16kmの運河地帯の永久租借権を手にした。アメリカはその見返りとして、パナマに一時金として1000万ドル、さらに運河地帯の使用料として毎年25万ドルの支払いを約束した。またアメリカは、パナマの独立を保証し、代わりに軍事的混乱が発生した場合に介入する権利をえた。しかし、軍事行動に関するこの条項は、国内民族派勢力の反発をまねき、パナマの政治問題となっていった。

1904年、制憲議会により採択された初のパナマ憲法には、選挙による政府の樹立と大統領、2名の副大統領、最高裁判所、一院制議会などの規定がもりこまれた。医師で民族派の指導者アマドール・ゲレロが、初代大統領に選出された。07~14年のパナマ運河の建設期間中だけでなく、その後も長期にわたって、アメリカはパナマ内政への干渉をつづけた。第1次世界大戦では、パナマは連合国側について17年4月に参戦したが、戦時下の状況がさらにアメリカの影響力を強化することとなった。

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パナマ運河の完成

パナマ運河は1914年に一部開通し、20年に運河本体がほぼ完成した。これによって、パナマは新たな繁栄の時代をむかえた。しかし、20年代を通じて国内の政情不安は解消されないままだった。パナマにおけるアメリカ合衆国の軍事的・政治的干渉は以前ほどではなくなったが、民族派の反米活動はむしろ活発化した。

1931年、アリアスを指導者とする反乱集団が政権を奪取したが、アメリカは介入をひかえた。32年、アリアスの兄アルモディオ・アリアスが大統領にえらばれ、その後数年間の両国関係は前進した。34年、アメリカがドルを切りさげると、パナマは、運河地帯の年間使用料25万ドルが、価値の減じたドルでしはらわれることを拒否し、両国は真っ向から対立した。交渉を重ねたのち、36年、パナマ側の主張をいれて年間使用料を43万ドルとし、同時に1903年条約の全面見直しが合意された。

1939年、アメリカの上院が批准したこの改訂条約により、アメリカは有事の際には運河防衛のためパナマ領内に軍隊を派遣する権利をえた。このとき、アメリカはパナマ内政への干渉権を放棄し、またパナマの独立をアメリカが保障するという条項も更新されなかった。パナマは、この条約によってさまざまな通商上の権益を手にいれた。

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アリアス政権

第2次世界大戦中の1940年、アルヌルフォ・アリアスが大統領に就任するが、枢軸国寄りの姿勢が問題視され、翌年失脚した。42年、パナマは連合国側から第2次世界大戦に参戦した。戦争中はアメリカ軍基地が国内にもうけられたこともあって、パナマ経済は好景気にわいた。アメリカ軍は48年に基地を撤収した。

戦後はインフレ、債務、失業といった問題をかかえ、人口の急増がますます状況を悪化させた。このため政情不安をまねき、民族派は運河の引き渡しをアメリカに要求した。1949年、国家警備隊司令官レモン大佐の後押しで、アルヌルフォ・アリアスがふたたび政権を奪取した。しかし51年、アリアスが国会を解散し、ストライキが発生すると、レモンはアリアスを追放した。52年、レモンはみずから大統領に当選したが、改革をすすめるさ中の55年に暗殺された。

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反米運動の激化

アメリカ合衆国のしはらう運河地帯の使用料は、1955年に43万ドルから193万ドルにひきあげられた。しかし、デ・ラ・グアルディア大統領の政権(1956~60年)下に野党勢力は使用料の増額を要求し、とくにエジプトが56年にスエズ運河を国有化したことから、パナマでも国有化要求が強まった。

1959年、大規模なデモが発生し、アメリカ国旗はひきちぎられ、アメリカ政府機関の建物は投石をうけた。また運河地帯への侵入をこころみる者も後をたたなかった。パナマ側の反感をなだめるため、アメリカ大統領アイゼンハワーは、運河地帯にアメリカ国旗とならべてパナマ国旗もかかげるよう命令した。

反米運動はつづき、1964年にはアメリカ軍が暴動を鎮圧する事件もあった。国内で主権回復要求が高まる中で、ロブレス大統領は新しい条約締結をめざして交渉を開始し、67年、アメリカとパナマ両国は3つの条約草案の内容に合意した。

1968年、アルヌルフォ・アリアスが3度目の大統領になったが、就任の11日後、オマール・トリホス・エレラ大佐のひきいる評議会にその地位をおわれた。トリホスは国家警備隊司令官として、まもなく全政党の解散を命じた。72年、新議会が採択した憲法により、形式上の大統領制は維持されたものの、トリホスは政府主席として6年にわたり全面的な行政権をえた。

彼は内政と外交をとりしきり、政府・軍・司法の指導者を任命する権利をえた。経済は低迷をつづけ、1973年には輸入していた石油価格の高騰で債務が増加した。政府への抗議行動をうけて、賃金と物価の統制がおこなわれた。

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新運河条約

一方、運河問題をめぐる圧力も緊迫の度を高めた。1970年、トリホスは、アメリカの提案した67年の運河条約見直し案を拒否したが、71年には交渉を再開した。その結果、77年に2つの新条約がむすばれた。新運河条約は、アメリカによる運河の運営・維持・防衛の期限を99年12月31日までとし、通行料の一定割合をパナマがうけとることをみとめた。他方の中立条約は、すべての国家に運河使用権があるとしながら、同時にアメリカが無期限にその防衛にあたると規定している。

パナマ国内の一部強硬派は条約内容がふじゅうぶんであると反対したが、1977年、パナマはこれらの条約を批准した。アメリカ国内でも、これによりアメリカが収入につながる正当な財産権を放棄することになるという解釈や、パナマの管理下では運河の効率が悪化するとの懸念から、条約に反対する声が多くなった。しかし、78年アメリカも両条約を批准し、翌年に発効した。

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