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1848~1903 フランス後期印象派の画家。装飾的効果にとむ表現力豊かな色彩や、平面性を強調した形態、主題の独自性などによって、現代美術に大きな影響をあたえた。
共和派のジャーナリストを父に、中流家庭の子としてパリに生まれた。家族と南米ペルーで5年間すごしたのち、1855年に帰国。商船の船員をへて、パリで株式仲買人として成功をおさめ、妻と5人の子供をえて、快適で裕福な生活をいとなんだ。 1874年にピサロとであい、第1回印象派展をみてからは、絵の収集家・日曜画家として絵に情熱をかたむけるようになった。76年、79~82年、86年の印象派展に出品し、83年には画業に専念するために仕事をやめ、安定した暮らしを放棄した。じゅうぶんな生活費をえられなくなった妻は、子供をつれて実家にもどることを余儀なくされた。 1886~91年、ブルターニュ地方のひなびた小村ポンタベンに滞在し(この間、87~88年にパナマとマルチニーク島へ旅行)、そこで新しい表現様式の実験をこころみる画家グループの中心的存在となって、ポンタベン派を形成した。エミール・ベルナールの影響で、印象主義を否定し、たんなる自然の再現ではなく、そこに内面的・理念的世界をうちだして、象徴的内容を表現する総合主義を展開した。 彼は中世のステンド・グラスや日本の浮世絵版画、文明から遠くはなれた土着の素朴な芸術などに霊感をえた。浮世絵版画への造形的関心は、1888年に南仏アルルで、ゴッホと2カ月間共同生活するうちに生じたものであった。彼の新しい表現様式は、「黄色いキリスト」(1889)などの、非自然主義的色彩による、大きく平坦な色面と太い輪郭線にしめされている。
1891年、ヨーロッパ文明の「人工的で因習的なすべてのもの」からのがれるために、南太平洋の島にむけて旅だち、93~95年にかけて一時帰国したものの、生涯南国にとどまった。最初はタヒチ島に滞在し、のちにマルキーズ諸島にうつっている。 彼の表現主義的な色彩、平板な形態、遠近法の否定といった独自性は、そこでもほとんど変化せず保持された。いっぽうでは、エキゾティックな南国を舞台にポリネシア文化の影響もうけ、画題はより独創的となり、構図はさらに単純化し、いっそう力強い造形性をしめすようになった。主題は「タヒチの女(浜辺にて)」(1891)のような日常生活の情景から、「死霊が見ている」(1892)のような迷信からくる恐怖をえがいた一連の作品まで幅ひろくある。 代表作「われわれはどこから来たのか、われわれは何か、われわれはどこへ行くのか」(1897)は、寓意的内容をふくんだ記念碑的大作であり、彼はこれを自殺未遂をはかる直前にえがいた。死にいたるまでの生活はパリの画商からのささやかな送金によってささえられていたが、1903年5月9日マルキーズ諸島アトゥオナで死去した。 ゴーギャンの色彩における大胆な実験は20世紀のフォービスムの様式に直接つながるものであり、力強い造形性はノルウェーの画家ムンクや、その後の表現主義の画家に影響をあたえた。
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