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1893年、自由党(自由派)は政権の奪回に成功し、セラヤが大統領に就任した。セラヤは16年間独裁者として君臨するが、1909年に権力の座をおわれ、ディアスが暫定大統領に選出された。12年、ディアスは反乱が発生すると秩序維持のためアメリカ合衆国に軍事的支援をもとめ、アメリカは海兵隊を派遣した。16年のブライアン・チャモロ条約により、アメリカは300万ドルをニカラグアにしはらい、カリブ海から太平洋にいたる運河を同国に建設する権利、コーン諸島の租借権、フォンセカ湾に海軍基地を建設する権利を獲得した。 このブライアン・チャモロ条約は他の中央アメリカ諸国の反発をうけ、ニカラグア国内ではゲリラによる反米闘争がはじまった。アメリカ海兵隊はニカラグアに1925年まで駐留した。海兵隊が撤収すると反乱がはじまったため、アメリカ軍は翌年ニカラグアにもどった。28年、アメリカの監視下で選挙が実施され、自由党のモンカダ将軍が大統領となった。 しかし、自由党の指導者のひとりサンディーノは、その後数年にわたってアメリカにゲリラ戦をいどんだ。1933年、アメリカ海兵隊は撤退に際し、アナスタシオ・ソモサを国家警備隊司令官にすえた。そのソモサはサンディーノを暗殺し、37年に大統領に就任した。以後、40年以上にわたりソモサ一族がニカラグアに君臨することとなる。
1941年12月9日、ニカラグアは第2次世界大戦に参戦した。45年6月には国際連合設立に参画。48年には米州機構にくわわり、51年、中央アメリカ諸国の共通課題を解決するためにもうけられた中央アメリカ機構(OCAS)にも参加した。 一方、国内では、一度退任したのち、大統領職にかえりざいたアナスタシオ・ソモサが1956年に暗殺され、息子のルイス・ソモサが後をついだ。彼は、父の残任期間をつとめた後選挙に勝利をおさめ、さらに1期4年をつとめた。その後4年間は、ソモサ一族の側近が大統領職にあったが、67年、ルイス・ソモサの弟ソモサ・デバイレが大統領に就任した。彼は軍部の支持をうけて独裁体制をしき、国家警備隊を利用して圧政をおこなった。 1971年8月、議会は憲法を放棄し、みずから解散した。72年2月の制憲議会選挙では、ソモサ・デバイレの自由党が圧勝した。同年5月、彼は軍最高司令官の地位にしりぞき、自由党2名、保守党1名からなる三頭政治がはじまった。12月23日、首都マナグアが大地震におそわれ、約6000人が死亡、2万人が負傷する惨事となった。戒厳令が布告され、ソモサ・デバイレが実質的な大統領の地位に復帰し、74年、正式に大統領に再選された。
マナグアの新聞ラ・プレンサ紙の編集長をつとめ、長く反ソモサの論陣をはってきたチャモロが、1978年初頭に暗殺された。国民はソモサ・デバイレ大統領の関与をうたがい、国内は騒然として事実上の内戦状態に突入した。サンディーノの名前にちなんで61年に結成されたサンディニスタ民族解放戦線は、反ソモサ闘争をくり広げ、ニカラグアは79年4月に完全な混乱状態におちいった。 キューバにつづく西半球第2の共産主義政権誕生を懸念したアメリカは、穏健派の連立政権を成立させるため、ソモサ・デバイレに辞職をせまった。ソモサ・デバイレは1979年7月17日に辞任し、フロリダ州マイアミをへてパラグアイにのがれたが、80年、同国で暗殺された。 サンディニスタ政権は最高評議会を中心に国政運営にあたったが、深刻な経済的困難に直面し、経済活性化のためアメリカに援助をもとめた。しかしアメリカは左傾化するサンディニスタ政権に対する懸念を深め、エルサルバドルの反乱を扇動したとして同政権を非難し、1981年には援助をうち切り、反サンディニスタのゲリラ組織コントラへの支援を開始した。82年、サンディニスタ政権はソ連と援助協定を締結し、84年11月の選挙ではサンディニスタの大統領候補オルテガが大勝した。 1985年10月、オルテガ大統領は1年間の非常事態宣言を発し、公民権を停止した。同年、アメリカ議会ではコントラへの軍事援助が否決され、その結果、援助は86年10月まで再開されなかった。しかし11月、援助停止期間中にアメリカがイランへひそかに武器を売却し、その代金をコントラへ横流ししていたとの報道がながれた(→ イラン・コントラ事件)。88年3月、初の直接和平交渉の結果、コントラとサンディニスタは一時停戦に合意した。
国際監視のもとで1990年2月におこなわれた選挙では、アメリカの支持をうけた反サンディニスタ勢力の連合体、野党国民連合(UNO)が議会の過半数を獲得、同連合のチャモロ女史がオルテガにかわって大統領に就任した。彼女は国家再建計画にのりだし、コントラの解体、国軍の段階的兵力削減、通貨改革などの諸政策をすすめた。はげしいインフレは沈静化したが、経済成長率は依然低迷をつづけ、失業率は上昇した。 1991年、チャモロ大統領がオルテガ前大統領の弟ウンベルト・オルテガを軍総司令官の地位にとどめたため、コントラ支持者の反発をまねき、コントラの一部勢力は再武装をはじめた。93年にはコントラの部隊が38人の人質をとり、同司令官の辞任を要求するなど混乱は拡大した。これに対し、サンディニスタ支持者も副大統領ほか32人を人質にとり応酬した。これらの人質は同年8月までに全員が解放されたが、チャモロ大統領は94年に同司令官を解任することを約束したことで、サンディニスタ勢力からの支持をもうしなった。 1994年、コントラの再武装グループと政府の間で協定がむすばれ、「レコントラ」とよばれるこのグループは武装解除し、国家警察にくわわることに同意した。議員間の汚職非難によって分裂していた国会も、94年1月、2年ぶりに審議をおこなった。5月、オルテガ軍総司令官の退役決定が発表され、12月にはクアドラが後任に指名された。オルテガは95年2月予定どおり辞任し、ニカラグアの歴史上はじめて、軍の最高ポストの平和的交代が実現した。 1996年10月には大統領選挙と国会選挙がおこなわれた。大統領選挙では、立憲自由党(PLC)など右派5党で構成する自由連合(AL)から立候補したPLC党首アルノルド・アレマン・ラカヨがサンディニスタ民族解放連合(FSLN)のオルテガらをやぶって当選、国会選挙では自由連合が42議席を獲得して、37議席のオルテガのFSLNをおさえた。 1999年の対外債務残高は60億ドルをこえており、IMF(国際通貨基金)は同年9月、重債務貧困国と認定し、経済改革やODA債権の放棄などの救済計画適用をきめた。2000年5月にはアレマン大統領が訪日した。
国民議会で国家監査官制度の見直しがおこなわれ、それをふくむ憲法改正案を議会は承認。2000年1月20日に施行された。この制度ではPLCとFSLNが複数の監査官を選出することとなった。 アレマン大統領の任期満了を前に2001年におこなわれた大統領選挙で、保守与党PLCはボラニョス副大統領を、FSLNはオルテガ元大統領を候補に選出。オルテガは貧困を改善できなかった前政権時の政策はまちがっていたとみとめ、「福祉社会」を公約にかかげて11年ぶりの政権奪回をねらった。それに対しボラニョスは「15万人の雇用創出」を公約。いずれの候補も市場を重視した経済政策をおこなう主張ではかわらなかったが、01年9月にアメリカで同時多発テロ事件がおきたあと、国際社会では反テロリズムが大勢となった。ボラニョスはこの機運に乗じて「オルテガ候補にはイラクなどの独裁国家と接点がある」と攻撃。アメリカもオルテガ政権時の「人権問題」を批判した。 2001年11月に投票がおこなわれたが、ボラニョスの得票率がオルテガを大きくうわまわり、ボラニョスは「民主主義を確固たるものとする新たな一歩」と勝利宣言。オルテガは敗北をみとめる一方、「外部から強い干渉があった」とアメリカなどを批判した。 2002年1月、ボラニョスは大統領に就任し、就任演説で雇用創出、貧困撲滅、汚職追放を公約として宣言した。就任後も大統領は汚職に対してきびしい対応をとり、02年12月にはアレマン前大統領が在職中の公金横領の罪で逮捕された。しかし、逮捕によって与党PLC内でアレマン派とボラニョス大統領の関係が悪化し、国会での政権基盤は大きく弱体化した。04年11月の地方選挙では約150の自治体のうち、首都マナグア市長をふくむ過半数を野党FSLNが制した。さらにPLCのアレマン支持派は05年1月、野党FSLNとともに大統領の閣僚任命権を制限する憲法の一部改正を国会で成立させるなど、政争は激化していったが、内政の安定をのぞむ米州機構やアメリカによる仲介がおこなわれた。06年4月には、ドミニカ共和国をふくむ米・中米自由貿易協定(DR-CAFTA)が発効した。 2006年11月の大統領選挙では、FSLNのオルテガ元大統領が新党のニカラグア自由同盟・保守党(ALN-PC)候補のモンテアレグレらをしりぞけて当選をはたし、16年ぶりに左派政権が誕生することとなった。オルテガは、1990年以来たびたび大統領選挙に出馬しながら政権をうばえず、党内での求心力も弱まっていたが、選挙期間中、3期つづいた中道・保守政権下で経済は比較的順調だったが、その恩恵は一部の富裕層だけのもので格差は広がったとして貧困対策重視をうったえた。また、反米的な言動をやめて右派ともあゆみより、カトリック教会との和解も実現した。アレマン政権下での汚職や、自由主義経済によってもいっこうによくならない生活に幻滅していた貧困層を中心とする国民も、左派政権誕生をささえた。 オルテガは当選後、雇用を拡大して貧困問題を解決するために市場経済の原則はまもるとし、企業家の入閣なども約束した。前政権時にアメリカの制裁の中で経済が疲弊したことをふまえ、今度はブラジルのように穏健な中道左派的な政策をめざすようにもみえる。2007年1月10日の就任後、オルテガ新政権の政策がどうなるのか内外の注目があつまっている。
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