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項目構成
台北移転後の「中華民国」政府は、その後も「全中国の唯一の合法政権」と主張しつづけたが、実効統治地域は台湾省に属する台湾本島と周辺諸島および福建省の一部である金門・馬祖地区だった。1990年代以降の民主化にともない、これらの実効統治地域を憲法上に明記した。台湾省と「中華民国」統治地域の重複をさけるため、98年台湾省政府の機能は凍結され台湾省長・省議会選挙を停止、省政府の中央直轄化・簡素化がおこなわれた。 省に属する県では県長、県に属する市では市長が行政をおこなう。なお台北市と高雄市は台湾省に属さず、行政院が直轄する「院轄市」で、台湾省と同格の地位にある。それぞれの市長は行政院から任命されていたが、1994年から市民による直接選挙が実施されている。
中国国民党(国民党)は台湾最大の政党として、1946年から2000年まで一党支配をおこなっていた。1986年から複数政党制がみとめられ、民主進歩党(民進党:1986年結成)、新党(1993年)などの政党が誕生した。2000年の総統選挙では、民進党の陳水扁候補が勝利、民進党は少数与党となった。この総統選挙は国民党の分裂選挙となり、国民党を離党して無所属で出馬した宋楚瑜(そうそゆ)は、選挙直後に親民党を結成した。また、01年8月には、李登輝前総統が主導し中小企業主を基盤にした台湾団結連盟(台連)が結成され、陳総統を支持した。 2001年12月の立法院選挙で、民進党は過半数にはおよばないものの国民党にかわって第1党となり、陳総統の基盤は強化された。国民党ははじめて立法院議席の過半数をわり、第1党の座もうしなうことになった。04年12月の立法院選挙でも、民進党が第1党の座を維持したが、小選挙区比例代表並立制が導入された08年1月の選挙では、国民党が定数の3分の2をうわまわる議席を獲得して圧勝した。
徴兵制がしかれており、2008年1月現在、1年間の兵役が義務づけられている。2004年の兵力は29万人、そのうち陸軍20万人、空軍4万5000人、海軍4万5000人である。また軍事施設には最新鋭兵器、軍用機、軍用船が装備されている。もっとも重要な軍事基地は福建省沖の金門島である。
台湾は古くから中国のはるか東海上にある島として認識されていた。中国の文書に台湾への探検の記録が登場するのは、607年のことである。14世紀半ばに元が澎湖島を統治下においたが、その後も台湾本島は公的にはどこにも「領有」されることなく、海域を通過する船舶の一時的な寄港地、あるいは海賊の巣窟(そうくつ)となっていた。 16世紀になって、当時アジア海域で活躍していたポルトガル船がヨーロッパ人ではじめて台湾を「発見」した。緑におおわれた台湾をみて「イラフォルモサ(うつくしい島)」と称賛したといわれ、今でも欧米では台湾を「フォルモサ」とよぶことが多い。 台湾を最初に「領有」したのはオランダとスペインだった。オランダはまず澎湖島を占領したのち、1624年に現在の台南市周辺を占領し、中国大陸から中国人労働力を導入して、プランテーション的経営にのりだした。一方、26年にはスペインが台湾北部に進出し、開拓をはじめた。しかし、42年には、スペインはオランダ勢力によって台湾から追放され、オランダの支配は、鄭成功に駆逐されるまで37年間におよんだ。
1644年、明は中国北部の満州族の清によってたおされた。明朝の遺臣たちは「反清復明」をかかげ、反攻をくりかえした。そのリーダーのひとりが鄭成功である。鄭成功は61年オランダを駆逐し、台湾を清への反攻の拠点とした。台湾の漢民族による統治はこの鄭成功の時代にはじまる。鄭氏は3代22年間にわたって台湾を統治したが、83年清に降伏、こうして台湾は清の統治下に入ることになった。 その後、台湾へは大陸から続々と漢民族が移住し、開拓地を拡大していった。地理的に近接していることから、移住民はほとんど福建省南部と広東省東部出身だった。現在の台湾の言語文化がこの地方にきわめて近いのはこのためである。 台湾の開発は台南にはじまり、開拓前線は2世紀をかけて北上し、台北が本格的に開発されるのは19世紀に入ってからだった。おもに農業と大陸との貿易によって発展していったが、19世紀半ばに入って、ヨーロッパ列強諸国の勢力がおよぶにいたった。1858年に清がアロー戦争にやぶれ、天津条約が締結された結果、台湾でも台南のアンピン(安平)港や基隆港が開港されることとなった。 1874年には日本による台湾出兵がおこなわれ、84~85年の清仏戦争の際には、フランス艦隊が台湾北部の攻略をはかった。清はそれまで台湾の山間部や東部沿岸地域を「化外の地」として積極的に統治してこなかったが、台湾を防衛するために劉銘伝(りゅうめいでん)を派遣し、85年、従来福建省に属していた台湾を台湾省に昇格させ、劉銘伝は初代の台湾巡撫(たいわんじゅんぶ:地方長官)となった。劉銘伝は台湾全域の実効支配をめざす一連の近代化政策を実施したが、じゅうぶんな成果を達成できないまま、台湾は日本の植民地となる。 1895年、日清戦争の結果締結された下関条約で、台湾と澎湖島は日本に割譲された。日本は台湾総督府をおき植民地統治を開始した。当初日本は、台湾統治政策として植民地主義を採用し、内地とはことなる植民地法を適用したが、1922年からは原則として内地と同じ法制度を植民地にも適用。この同化政策は、法制度だけではなく、文化的にも植民地の「日本化」をはかるものだった。 1936年以降、日本の総力戦体制化がすすむと、皇民化政策により同化政策をさらに強化し、新聞の漢文欄を禁止、日本語使用を徹底、改姓名を奨励した。また陸海軍で志願兵制度を導入し台湾人兵士を戦場におくった。その一方で日本は、鉄道や道路などインフラストラクチャーの整備や教育制度の充実をはかり、それらの成果は戦後の台湾にもひきつがれている。しかし、日本の植民地支配に対して漢族系台湾人による抗日民族運動が20年代に全島的に展開され、また30年には台湾中部でタイヤル族による抗日蜂起(ほうき:霧社事件)がおこった。
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