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タイワン(台湾)

タイワン(台湾)
百科事典項目
項目構成
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国民党政権

1945年、日本の敗戦で、台湾と澎湖島は中国へ返還された。これを台湾では「光復」とよぶ。しかし、植民地からの解放もつかのま、台湾接収のため中国から派遣された官僚や兵士の横暴と腐敗に対する台湾住民の失望は大きかった。台湾住民の不満はついに47年2月28日の暴動「二・二八事件」へと発展した。中華民国政府はただちに軍隊を派遣して、暴動を鎮圧した。しかしこの事件は後々まで、台湾住民(本省人)と45年以降、台湾へわたってきた移住民(外省人)との間に深い溝をのこすこととなった。「二・二八事件」は長い間歴史から抹殺されていたが、91年、李登輝総統が歴史的事実であることを承認した。

1949年に人民解放軍を擁する中国共産党が中国国民党(国民党)をやぶり(国共内戦)、中華人民共和国の成立を宣言すると、蒋介石ひきいる国民党政権はその軍隊をひきつれて台湾へのがれ、台北を国民政府の臨時首都として大陸反攻をとなえた。50年の朝鮮戦争の際に中国共産党は台湾攻略をはかったが、アメリカが第七艦隊を派遣して台湾防衛をおこなった。その後、アメリカは台湾に対して、軍事援助だけでなく経済援助を65年まで実施、また54年には国民政府とアメリカは安全保障条約をむすび、さらにその関係を強化した。こうして台湾がアメリカの防衛下におかれた状態で、50年代の中台関係は緊張をつづけていくことになった。

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「奇跡」の経済発展

アメリカは台湾に対し、1950~65年にかけて膨大な軍事および経済援助をおこなった。この援助をもとに台湾は農地改革や工業化を推進し、65年の台湾の工業生産は前年比約300%増、輸出額は3倍、輸入額は2倍にのぼった。こうした台湾のほかに類をみない急速な経済発展は、アジア諸国のモデルとなっている。

一方台湾をめぐる国際情勢は、1960年代に入って変化しはじめた。蒋介石は66年総統として第4期目に入り、長男の蒋経国も65年国防部長に就任し、ますます国民党への権力集中を強化した。しかし、60年代に入って、中華人民共和国を承認する国がふえるのにともない、中華民国政府と国交を断絶する国が増加していった。こうした台湾の外交的地位の低下は経済関係にも影響をあたえ、台湾との経済的結び付きを弱めていく動きがみられるようになった。

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国際関係の変化

1970年代、台湾をめぐる国際関係は大きな転換をとげた。アメリカが中華人民共和国へ接近したことが決定的な要因となった。台湾の国民政府が中国を代表する政権として国際連合(国連)に加盟していることに批判が高まり、71年ついに国連総会は、中華人民共和国の代表権を承認し、台湾は国連の議席をうしなった。これをうけて72年ニクソン大統領は中国を公式訪問、つづいて日本が同年、中華人民共和国と国交を回復した。79年にはアメリカも正式に中華人民共和国と国交をむすび、台湾との外交関係を断絶した。これにともない、中華人民共和国を承認し台湾と断交する国があいついだ(2008年1月現在、国交をむすんでいる国は23カ国にすぎない)。

しかし台湾は、経済力を背景に各国との経済関係を強化し、その経済的地位は外交的孤立にもかかわらず、ゆるぎないものとなっており、実務的代表機関は61カ国におかれている。蒋介石は1972年、5期連続総統に選出されたが、75年に病死し、後任には副総統の厳家淦(げんかかん)が就任、78年には、72年から行政院長(首相)の地位にあった蒋経国が総統に選出された。国民党政権の一党独裁はひきつがれ、蒋経国は84年にも総統に再選された。このとき副総統には本省人の李登輝が起用された。

国民党による支配がつづく中で、1970~80年代にかけて経済はますます発展し、日本、アメリカ、ヨーロッパと貿易関係を拡大した。経済発展を背景に中産階級が成長し、政治参加をもとめる意識が高まった。戒厳令下で新規政党結成が禁止されていたが、反国民党勢力は「党外」として結集し民主化を要求、86年民主進歩党(民進党)を結成すると国民党政権はこれを黙認した。87年蒋経国は民主化要求をうけいれることを決断し、38年間つづいていた戒厳令を解除した。88年1月蒋経国は死去し、後任総統に李登輝が本省人としてはじめて就任した。

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民主化の進展

1989年には史上はじめて民主進歩党(民進党)など複数政党が参加した選挙が実施された。96年3月に実施された初の国民直接選挙による総統選挙には、国民党の李登輝、野党新党の林洋港、独立の旗手といわれる民進党の彭明敏(ほうめいびん)らが立候補し、李登輝が54%を得票し総統に選出された。李総統のもとで、台湾の民主化は加速され、国内の政治改革とともに中華人民共和国との関係改善に積極的な政策を展開した。93年4月には中台それぞれの代表がシンガポールで、関係改善にむけての話し合いをおこなった。しかし、96年の総統選挙の際に台湾近海でミサイル演習をおこなうなど、台湾における「独立」気運に対する中国政府のきびしい牽制(けんせい)は、その後もたびたびくりかえされた。

国民党は、1998年12月の立法院選挙で過半数の議席を占め、同時におこなわれた台北市長選挙でも野党民進党の現職候補をやぶって当選させるなど、安定した強さをみせた。国民党政権のもとで、台湾海峡をはさむ中国本土沿海部の経済特区への投資は活発におこなわれたが、中国との直接の通商・通航・通信は禁止する「三不」政策がとられた。

政治の民主化がすすむにつれ、住民の中に台湾の自立をもとめる気運が広がり、本省人の李総統は、1999年7月に、中国と台湾は「特殊な国と国との関係」と発言、「一つの中国」を主張する中国側の反発をまねいた。

1999年9月21日、台湾中部を震源地とするマグニチュード7.7の大地震が発生し、死者は2400人以上にのぼった。日本をふくむ各国が国際緊急援助隊を派遣し、生存者の救出にあたった。震源地に遠い台北市内でも倒壊したビルがあり、耐震基準のあまさが明るみに出た。停電で操業停止になった工場もあり、世界の半導体市場に一時的な混乱をひきおこした。

2000年3月の総統選挙は国民党の連戦(れんせん)候補(副総統)、国民党を離党して無所属で出馬した宋楚瑜候補(前台湾省長)、民進党の陳水扁(前台北市長)の3者を中心に激戦がくりひろげられ、陳が次点の宋をわずかにおさえて当選、長期にわたった国民党政権に終止符がうたれた。民進党は綱領に台湾独立をかかげているため、選挙期間中中国が再三にわたって警告を発した。総統に当選した陳は、中国との直接の通商・通航・通信を00年のうちに解禁したいとする「三通」政策をうちだした。中国とともにWTO(世界貿易機関)に加盟することになっている台湾と中国との経済交流を、関係改善の糸口にする意向を表明したものであった。

5月、総統に就任した陳は、唐飛(とうひ)前国防部長を行政院長(首相)とする内閣を発足させた。国民党政権の重鎮だった唐の起用の背景には、国民の融合をはかるとともに、立法院内で少数与党であるという事情があった。陳総統はまた、地方議会が国民党と癒着した暴力団によって牛耳られている現状(「黒金政治」とよばれる)を打破するため、陳定南(ちんていなん)を法務部長につけて改革にのりだした。

陳総統がかかげていた脱原発は、野党の国民党から強い批判をうけたが、建設するのは工事中の第四原発までで終了し、以後は非核体制を目標とすることで国民党とも合意した。2001年8月には、前総統の李登輝が主導する新政党「台湾団結連盟」(台連)が発足、陳政権との連携をうちだした。

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国民党にかわり民進党が第1党に

2001年12月におこなわれた立法院選挙で、民主進歩党(民進党)は改選議席を大きくうわまわる議席を獲得、国民党にかわって第1党となった。総統選挙での陳水扁の勝利につづく民進党の躍進で、台湾の民心が、より自立の方向に動いていることが明らかとなった。国民党ははじめて第1党の座をうしない、中国と台湾の共存論によりかたむいている前総統で前国民党主席でもあった李登輝が主導する台連の動きもあり、内部的な混迷を深めた。ただ、第1党となったとはいえ、民進党の議席は過半数におよばず、台湾団結連盟(台連)をあわせてもとどかなかった。

経済面では、2002年1月に、前年12月の中国につづき、WTO(世界貿易機関)への加盟が実現した。これは「国」としての加盟ではなく、「台湾・澎湖・金門・馬祖の独立関税地域のために行動する政府」としての加盟承認であった。この加盟により、台湾経済は、世界の自由貿易体制とより一体化することになった。

陳政権はWTO加盟実現にひきつづき、オブザーバー資格でのWHO(世界保健機関)加盟を目標としたが、中国の強硬な反対で実現のめどはたっていない。経済界を中心として三通政策をもとめる声が高まる中、陳総統は「一辺一国」(台湾と中国はそれぞれ1つの国)と発言し、あらためて「中華民国」が独立主権国家であることを強調したが、内外に波紋をよんだ。

世界的不況は台湾経済に影をおとし、また中国への工場移転などで産業の空洞化もすすみ、失業率が5%をこえた。景気回復には経済構造改革が不可欠という認識から、不良債権問題をかかえる農漁会信用部の金融改革を実施しようとしたものの、農民の強い反対で断念した。2003年3月からのSARSの世界的流行では流行拡大阻止に失敗し、5月WHOは台湾全域を重度感染地域に指定した。7月に指定は解除されたが、後手にまわった対策に陳政権への批判が高まった。

2004年の総統選挙戦では、国民党と親民党とが連合して、連戦を総統候補、宋楚瑜を副総統候補とした。連戦は中国との関係改善と景気回復をうったえ、選挙戦序盤は世論調査の支持率で陳水扁をリードした。これに対し陳水扁は、対中国政策をめぐる住民投票(中国のミサイルに対する防衛能力を強化するなど)の実施、新憲法の制定など、台湾人意識にうったえる政策をかかげ、選挙戦終盤にはげしく連戦をおいあげた。

投票日前日の3月19日、台南で陳水扁に対する銃撃事件が発生したが、3月20日予定どおり総統選挙は実施され、大接戦の末、陳水扁が得票差2万9518票、得票率で0.22%という僅差(きんさ)で再選された。同時に実施された住民投票は投票率が約45%にとどまり、規定の過半数に達しなかったため成立しなかった。陳水扁は5月20日に総統就任演説をおこない、2期目がスタートした。

2004年12月におこなわれた立法院選挙は、民進党が議席を若干のばしてひきつづき第1党となったものの、台連は現状維持にとどまり、陳総統がめざした与党連合による過半数獲得はできなかった。野党は、親民党が議席を減少させたが、国民党は大幅にのばし、野党どうしの共倒れをふせぐ戦術が功を奏し、野党全体で過半数をわずかにうわまわった。

陳総統は選挙期間中に、現行の中華民国憲法にかわる台湾新憲法づくりをかかげ、2006年12月の住民投票、08年5月の施行など日程も明らかにした。また、公営企業の名についている「中華」とか「中国」を「台湾」にあらためようともうったえた。

こうした陳総統や与党連合による急激な台湾の自立化路線は、中台関係の現状維持をのぞむアメリカの支持をえることができず、また住民にも、自立志向を強めながらも中国との緊張関係はさけたいという意識がはたらき、多数の支持をえることはできなかった。

過半数の議席を獲得できなかったことで、陳総統の戦略は見直しをせまられ、とだえている中台対話の再開をのぞむアメリカの意向もあり、中台関係の改善が重要な課題となった。

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