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第2次世界大戦後の話題のひとつは、1947年ブルックリン・ドジャースのリッキー会長がファームのモントリオール・ロイヤルズから黒人のジャッキー・ロビンソン二塁手を登用して、大リーグ史上初の黒人選手を誕生させたことだった。はげしい人種差別の中でロビンソンは好成績をのこし、ナ・リーグの新人王を獲得した。これがきっかけとなって、ウィリー・メイズやハンク・アーロンをはじめ数多くの黒人選手が活躍することになった。 1950年代になると、大リーグのフランチャイズは交通機関の発達や生活の変化などによって大きくかわりはじめ、東部にかたよっていた球団が西へ西へと進出、ドジャースがニューヨークからロサンゼルスへ、ジャイアンツもニューヨークからサンフランシスコへ本拠地をうつし、大リーグは大西洋岸から太平洋岸まで北アメリカ大陸全般に広がっていった。このフランチャイズ移動によってファンは増大し、球団の数もしだいにふえていった。 1961年にはア・リーグ、62年にはナ・リーグがそれぞれ2球団をくわえ、それまでの8球団から10球団になった。69年にはア・リーグがカンザスシティ・ロイヤルズとシアトル・パイロッツ(現、ミルウォーキー・ブリュワーズ)をくわえ、ナ・リーグははじめてカナダにフランチャイズをおくモントリオール・エキスポズ(現、ワシントン・ナショナルズ)とサンディエゴ・パドレスをくわえて、両リーグともに12球団となった。これにともなってそれぞれのリーグが東西地区制をとり、地区優勝をはたしたチームによるリーグ優勝決定戦をへてワールドシリーズ7試合をたたかうようになった。 1977年には、ア・リーグにトロント・ブルージェイズとシアトル・マリナーズが誕生し、93年にはナ・リーグにも2球団がくわわって、14球団ずつの計28球団に。さらに98年にはタンパベイ・デビルレイズとアリゾナ・ダイヤモンドバックスをくわえて30球団になった。また、94年からは東、西、中の3地区にわかれ、1チーム当たり年間計162試合をおこなっている。地区優勝した両リーグの1位3チームとその3チームをのぞいてもっとも勝率の高い2位チーム(ワイルド・カード)をくわえた4チームでリーグ優勝決定戦(プレーオフ)をおこない、ワールドシリーズ(7試合4戦先取)でチャンピオンをきめる。 大リーグの下には選手養成のためのマイナー・リーグがあり、いちばんレベルの高い3A(トリプルA)から2A(ダブルA)、1A(シングルA)、ルーキーリーグがあり、1AはさらにハイA、A、ショートシーズンAにわかれている。マイナー・リーグ選手の待遇は3Aでも月給わずか数千ドルと極端に低いが、大リーガーになれば平均年俸が数百万ドルにものぼり、遠征の飛行機もファーストクラスと労使協定できめられている。
一方、大リーガーの高収入が球団経営を圧迫してきているのも事実である。そのきっかけになったのは在籍6年以上の大リーガーが移籍の権利を行使できるというフリーエージェント制度である。この制度によって、球団に対し強い交渉権をえた選手たちの年俸が1970年代から一気にはねあがり、プロバスケットボールをぬいてNo.1になった。81年にはこの制度の更改交渉をめぐり選手協会と球団側が対立、選手は2カ月(714試合)にわたりストライキを決行した。さらに94年には、それまで60%弱だった球団の総収入に対する人件費の割合をあらかじめ50%ときめるサラリーキャップ制の導入を経営者側が提示、それを強硬に導入したことで事態が紛糾し、8月12日からストライキに突入した。このストにより、2度の世界大戦でもとぎれることのなかったワールドシリーズが中止され、公式戦669試合が中止となった。 つづく1995年も、シーズンインがあやぶまれるほど球界最大の危機にみまわれたが、オーナー側の譲歩でなんとか開幕にこぎつけ、アトランタ・ブレーブス(ナ・リーグ東地区)が38年ぶり、通算3度目のワールド・チャンピオンになった。このシーズンは、近鉄バファローズ(現、オリックス・バファローズ)から大リーグに挑戦した野茂英雄が大活躍し、ストの影響でファン離れをおこしかけた球界にひとつの話題を提供した。野茂の成績は13勝6敗、リーグ最多の236奪三振、オールスター・ゲームの先発投手もつとめ、ナ・リーグの新人王を獲得している。 1998年にはセントルイス・カーディナルスのマーク・マグワイアとシカゴ・カブスのサミー・ソーサが熾烈(しれつ)なホームラン王争いを展開。2人の記録がロジャー・マリスのもつ61本の記録に近づくにつれて全米が熱狂した。マグワイアは9月8日に大リーグ新記録となる62号をはなつと、最終的に70号まで記録をのばした。また、その記録にこそおよばなかったものの、ソーサも65本のホームランをうち、チームを地区優勝にみちびいたこともあってその年の最優秀選手にえらばれた。この2人の活躍によって、大リーグはストライキでうしなったファンを完全にとりもどした。 しかしマグワイアの大記録や、その後2006年に達成されたバリー・ボンズの通算ホームラン新記録が筋肉増強剤などの薬物によるものとの疑いが濃厚となり、07年には大リーグにおける薬物使用の実態調査「ミッチェル・リポート」によって、彼らのみならず数多くの選手の薬物使用が明らかになった。
野茂英雄によって日本人選手の大リーグ挑戦に道が開け、1997年にはオリックス・ブルーウェーブ(現、オリックス・バファローズ)の長谷川滋利、千葉ロッテマリーンズの伊良部秀輝、2000年には横浜ベイスターズの佐々木主浩の各投手があいついで大リーグ入りした。なかでも、「ハマの大魔人」の異名をもつセーブ王・佐々木は1年目から2勝5敗37セーブをあげてアメリカン・リーグ新人王にかがやいた。01年にはオリックスのイチロー、阪神タイガースの新庄剛志が野手としてはじめて大リーグに挑戦。とくにシアトル・マリナーズのイチローは、野手は通用しないとの通説をくつがえして1年目から大活躍。打率3割5分でアメリカン・リーグの首位打者など数々のタイトルを獲得した。その後も読売ジャイアンツの主砲、松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースに入団するなど、日本のトッププレーヤーの大リーグ流出が続出し、日本のプロ野球界からは空洞化を危惧(きぐ)する声も出ている。
2006年(平成18年)3月には、大リーグ機構・選手会が主催するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の第1回大会が開催された。これは国別対抗戦で、アメリカをはじめ、日本や韓国、ベネズエラ、ドミニカ共和国、メキシコなど16カ国・地域が参加した。1次リーグは4チームずつ4つのリーグにわかれてたたかい、上位2チームがアメリカでの2次リーグに出場、のこった4チームで決勝トーナメントをたたかった。大リーガーも参加する真の世界一決定戦といわれ、日本代表チームも松井秀喜の参加は実現しなかったものの、イチローら内外で活躍するプロ選手たちでチームを編成、監督は王貞治がつとめた。決勝は日本とキューバの戦いとなり、日本が優勝した。第2回大会は09年の開催を予定、その後は4年おきにつづけていくとしている。
日本に野球をつたえたのは1871年(明治4年)、東京の大学南校(現在の東京大学)のアメリカ人教師H.ウィルソンといわれている。翌年には芝増上寺内の開拓使仮学校(のちの札幌農学校)でA.G.ベーツも試合のやり方をおしえている。野球は学生を中心に広がりはじめ、77年アメリカ留学から帰国した鉄道技師・平岡煕(ひろし)が新橋鉄道局に「新橋倶楽部」(愛称アスレチックス)を創設してからますます盛んになった。平岡はルールブックや用具などをアメリカからとりよせ、本場仕込みのベースボールを同僚たちにおしえた。一高(第一高等学校。現、東京大学教養学部)、慶応義塾、駒場農学校(現、東京農工大学農学部)、明治学院などの学生の間で流行したが、彼らの中にはこのクラブで指導をうけたものが多かった。ベースボールを野球と訳したのは一高の野球部員だった中馬庚(かなえ)で、「テニスはコートでプレーするから庭球、ベースボールはフィールドでおこなう競技だから野球とした」といわれている。それまでは「玉遊び」だとか「打球おにごっこ」などとよばれていた。 草創期にはストライクゾーンは目から胸までのハイボール、胸から腰までのフェアボール、腰から膝(ひざ)までのローボールの3つがあり、打者は自分のこのむ高さのボールを要求、投手も指定された所へなげなければストライクにはならなかった。四球(悪球出塁制)も最初は9球だったが、試合時間が長びくということで8球、7球とへっていき現在の4球になったのは1889年。バットも初期のころは羽子板のように平らだったのが、まるい棒ときめられ、長さ、太さが今のような規格になったのは96年のことである。ユニフォームもなく外野手は越中ふんどし、遊撃手などはゴロを後ろにそらさないようにはかまを着用していたという記述もある。
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