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日本美術

日本美術 にほんびじゅつ
百科事典項目
マルチメディア
北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
項目構成
III

飛鳥・白鳳時代の美術

この時代は朝鮮半島の百済から仏教が伝来したとされる538年(宣化3)から662年(天智帝の初年)までの前半期を飛鳥時代とし、以後藤原京をへて710年(和銅3)の平城京遷都までの後半期を白鳳時代とする。仏教が伝来するとともに大化改新以後に律令制の整備がすすみ、造寺造仏が積極的におこなわれたことが、この時代の美術の大きなエネルギーとなった。仏教美術誕生の時代である。

1

建築

仏教寺院の本格的な造営は、仏教の伝来から約半世紀にわたる宗教をめぐる抗争をへてはじまった。この間、仏像などとともに造仏工や造寺工などの技術者が朝鮮半島から渡来している。最初の仏教寺院は、蘇我馬子の発願によって6世紀の末に造営が開始され、7世紀初頭に完成した飛鳥寺である。百済からの渡来工人が造営にあたった伽藍は塔を中心に三方に金堂を配したもので、その配置は高句麗に例がみられる。ついで聖徳太子四天王寺を創建したが、これは中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべた伽藍配置で、朝鮮半島に例が多い。そして607年(推古15)ころ聖徳太子によって創建されたのが法隆寺である。現在の法隆寺は7世紀後半に焼失したのち白鳳期に再建されたと一般的に考えられているが、創建法隆寺の面影をとどめる飛鳥風で、西院の金堂、五重塔などは世界最古の木造建築である。

律令制が充実する白鳳時代になると、それまでの豪族の氏寺にかわり、各地から労働力を徴用して国家による大規模な官寺の造営が本格化し、最新の様式が導入される。天智天皇の発願で7世紀後半には飛鳥に最初の初唐様式をとりいれた川原寺が完成する。ここでは建築の設計にもちいられる尺度はそれまでの高麗尺にかわる唐尺である。7世紀末には藤原京に薬師寺が完成している。伽藍は金堂を中心に東西2塔を配するものであった。また藤原京にあって西南の薬師寺に対して東南に位置したのが大官大寺である。

2

彫刻

はじめて仏教美術の洗礼をうけた飛鳥時代の彫刻は、朝鮮半島を経由した南北朝時代の様式の強い影響をしめしており、つづいて白鳳時代には隋、初唐の影響がみとめられる。

7世紀の初め、飛鳥寺におさめられた釈迦如来像は日本初の丈六の大金銅仏である。通称飛鳥大仏、作者は渡来人の子孫、鞍作止利と「日本書紀」はつたえる。623年完成の銘がある法隆寺金堂釈迦三尊像は止利の代表作で、その正面観照性と口元にたたえた神秘的な微笑を思わせる表情は飛鳥様式の典型である。衣文(えもん)の表現は形式的といえるほどによく整理されており、全体の抽象的な印象を強めている。大陸の様式はすでに理知的に消化されているのである。

白鳳初期の金銅仏に野中寺弥勒菩薩半跏像がある。つづく興福寺仏頭はかつて山田寺講堂の本尊だったもので、頭部だけをのこしているが、ボリューム豊かな白鳳金銅仏の代表作である。白鳳期には法隆寺献納宝物中の四十八体仏をはじめ小金銅仏に優品が多く、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)や同夢違観音像などのあどけない童顔童子形が共通している。

木彫の最古の例は法隆寺夢殿の観音菩薩立像、通称救世観音(ぐぜかんのん)である。クス材の一木造で、その目鼻立ちの強さは表情に厳かな緊張感をあたえ、しかも釈迦三尊像にもまして神秘的である。法隆寺金堂四天王像は銘文から作者は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)とされ、7世紀中ごろの作。法隆寺百済観音像は同じころの木彫で、流麗なプロポーションをもったエキゾティックな異色の作風は中国南朝系の影響が考えられている。

7世紀後半、白鳳時代に入って法輪寺薬師如来像と虚空蔵菩薩像があり、そのやわらいだ質朴な表現は飛鳥風をとどめている。法隆寺の六観音像と同金堂の天蓋天人像は小金銅仏に通じる童顔童子形をしめしている。そして中宮寺弥勒菩薩像の瞑想する表情と調和のとれた姿勢の穏やかさは飛鳥・白鳳彫刻のもっとも成熟した姿である。ながれおちる衣文も自然で、写実にむかってさらに一歩がふみだされている。

白鳳時代にはより写実的な表現に適した塑造と脱活乾漆造が新たな造像技法としてもちいられている。当麻寺金堂の弥勒座像は塑像で、同じ金堂の四天王立像は麻布を漆ではりかさねて型をつくり木屎漆(こくそうるし)をもって整形する脱活乾漆造である。これは天平時代に入ると造像の主流になっていった。

3

絵画・工芸

6世紀の末、飛鳥寺造営のために百済から画工が渡来し、7世紀初めには高句麗の僧曇徴が来朝して顔料や紙、墨の製法をつたえた。さらに聖徳太子の時代には渡来系の画家組織が活動していたことが知られている。

最初の絵画的作品の例は623年の法隆寺金堂釈迦三尊像の須弥座(しゅみざ)と、同じころの中宮寺「天寿国繍帳」である。須弥座は損傷はなはだしいものの四天王や山岳風景に飛天や神仙が描かれているのがみとめられる。一方の天寿国繍帳は聖徳太子の死をいたんで太子の往生した世界をあらわした刺繍で、原画を描いた3人の渡来系の画工の名が知られている。人物の服装に当時の日本の風俗もとりいれられている点が注目される。7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。

白鳳絵画としては7世紀後半の法隆寺金堂壁画(1949年の火災でその大部分が損傷をうけた)が初唐様式をつたえる本格的な絵画作品で、諸仏の肉身表現は西域の陰影法をとりいれている。それは大陸様式を消化して模倣をこえ、真の古典のみがもつ気品にみちている。初唐の絵画様式をつたえ、古墳壁画の伝統の最後をかざるものに奈良明日香村の高松塚古墳壁画がある。700年前後の作とみられ、仏画としても風俗画としても完成度の高い貴重な資料である。

この時代は盛んな寺院の造営と造仏にともなって仏教工芸も開花した。法隆寺金堂の木造天蓋は奏楽の飛天や鳳凰とともに荘厳の空間をつくりだした初期の例で、法隆寺再建期にさかのぼる。法隆寺玉虫厨子の入母屋造(いりもやづくり)の宮殿部はミニチュアながら建築としても飛鳥様式をしのばせるものであるが、随所に高度な工芸技法がうかがわれる。外側は黒漆塗りで、金銅の透彫(すかしぼり)金具の下には当初は玉虫の翅がしきつめられていた。内部には金銅押出しの千仏像がはられている。金工には宝石をちりばめた夢殿救世観音の金銅透彫宝冠と法隆寺献納宝物中の金銅灌頂幡(かんじょうばん)がある。染織には中宮寺天寿国繍帳とともに法隆寺献納宝物に蜀江錦(しょっこうきん)の小幡がある。

IV

天平時代の美術

平城京へ遷都した710年から、784年(延暦3)の長岡京遷都をへて794年に都が平安京にうつされるころまでを、中心となった天平年間(729~49)の名をとって天平時代とよぶ。歴史区分の奈良時代にほぼ相当する。律令制の中央集権化は巨大な富を新都に集中させ、そこに貴族的な文化が花開く。前代からはじまっていた遣唐使のたび重なる派遣によって日本は国際的な唐の文化に直接ふれることになった。そうした美術文化を主導したのが国家が組織する官営工房である。

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