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日本美術

日本美術 にほんびじゅつ
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北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
項目構成
2

彫刻

まず前代後半に復活した木彫が彫刻の主流となる。新薬師寺薬師如来座像と神護寺薬師如来立像はともに8世紀末の一木造。ともに深い衣文の彫りと重量感、威圧的な相貌をもち、その翻波式(ほんぱしき)衣文の律動的な表現は平安前期を特徴づけるものである。興福寺北円堂の四天王立像も8世紀末の作。伝統的な木心乾漆であるが、表情、ポーズにみられる独特のユーモアと誇張は、すでに天平の古典の気分ではない。

9世紀の前半、真言密教の彫像群があらわれる。平安京の東寺は空海に下賜(かし)され、名を教王護国寺とあらためられた。その講堂の21尊は多くは乾漆を併用した木彫像。空海の指導のもとに仁王経曼荼羅を彫刻によって構成するもので、没後まもない839年(承和6)に完成している。とくに五大明王像の憤怒の造形や梵天像の官能性ただよう異国的な表現は、講堂の密教的空間の中でも際だっている。これにつづく大阪・観心寺の如意輪観音像の官能性はあやしいまでに高まっている。神護寺五大虚空蔵菩薩像も同じころのものである。真言密教系以外では法華寺十一面観音立像が檀像の系統に属する一木造で、インド僧が光明皇后の姿をうつしたという伝説にふさわしい異国的な雰囲気と豊饒(ほうじょう)な肉付けは、真言密教像にも通じるものがある。天台密教系には滋賀・向源寺の十一面観音菩薩立像があり、完成度の高い造形をしめしている。

9世紀末ころの仁和寺阿弥陀三尊像、清凉寺阿弥陀三尊像、さらに10世紀に入って醍醐寺薬師三尊像には、威圧感が後退して穏やかな雰囲気が生まれはじめる。それは室生寺金堂伝釈迦如来像の装飾性に接近してゆく傾向とともに、平安時代後期の和様を予感させる。

そして神仏習合の中から、この時代に神像彫刻が誕生した。薬師寺休丘八幡宮(やすみがおかはちまんぐう)の僧形八幡・神功皇后・仲津姫三神像がその代表的な例である。

3

絵画

密教彫刻と呼応して時代をあざやかにいろどるのは密教絵画である。曼荼羅密教の根本思想を総合的にイメージとして表現するもので、密教の修法の本尊である。空海が唐から請来した両界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をあわせたもので、原本はのこらないがそれを手本とした最古の遺品が9世紀前半の神護寺「両界曼荼羅」である。通称高雄曼荼羅、紫の綾に金銀泥(きんぎんでい)の線描のみで図像が描かれている。彩色本では東寺の「両界曼荼羅(伝真言曼荼羅)」が9世紀後半の作とされ、表情も豊かな諸尊を描きだす強烈な彩色は、異国的で濃厚な密教的宇宙を現出させている。十二天像は方位を守護する密教の護法神で、おおらかな表現の西大寺(さいだいじ)「十二天」は初期の例である。密教特有の憤怒尊には、不動明王のはやい例として園城寺の秘仏「不動明王像」があり、黄不動と通称される。肖像画では空海が請来した真言五祖像に新たに2像をくわえた「真言七祖像」が東寺にのこる。室生寺金堂の壁画「伝帝釈天曼荼羅」は、純粋密教画ではない雑部密教系の作例。同じく板絵に醍醐寺「五重塔初重壁画」があり、図様、彩色ともに穏やかな印象は平安後期につながる。

一方世俗的な絵画では、宮廷を中心にして唐風の題材を描いた山水画などが流行し、それらの唐絵(からえ)に対して日本的な風景や風俗を描くやまと絵が平安前期に誕生したことが文献の上では知られている。季節の風俗を屏風などに描いた月次絵(つきなみえ)のことは和歌にもよまれ、新しい様式の出現が推測されているが、作品は現存しない。

4

工芸

工芸では空海が請来した金銅密教法具が金工に新たな分野を開くが、それが和様を展開するのは次の時代をまたなければならない。その空海請来の経典、三十帖冊子をおさめるためにつくられた仁和寺の宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱(ほうそうげかりょうびんがまきえさっしばこ)は919年(延喜19)の作で、年代の確実な最古の蒔絵である。素地を乾漆でつくり、金銀の研出(とぎだし)蒔絵で律動感豊かに文様を描きだしている。

書では前代につづいて唐風の書風がこのまれ、能書家として空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)が三筆として知られる。空海には、最澄にあてた「風信帖(ふうしんじょう)」などがある。

VI

平安後期の美術

平安後期の美術文化の傾向を支配するのが和様である。遣唐使の廃止と唐の滅亡によって文物流入の巨大な波はいったんせきとめられ、蓄積されたエネルギーは国風化の方向で熟成を深めていった。律令制度は衰退し、かわって藤原氏の摂関政治、上皇による院政がおこなわれ、そこに華麗な王朝文化の花が開いて和様が展開する背景となった。11世紀になると末法思想が広まり、それは極楽浄土への憧憬を高めて浄土教美術がおこる。時代の末期、政権を掌握するのは新たに台頭した武士集団平氏で、彼らが王朝文化の最後の継承者であった。2世紀にわたって展開、完成された王朝文化こそ、以後の日本の美術文化が目標とし、あるいは挑戦した新たなる「古典」であった。

1

建築

藤原氏は平安後期の初めの1世紀余りの政治を支配したが、なかでも道長、頼通2代の時代にその権勢は頂点に達した。道長が京都に建立した阿弥陀堂(1020)、金堂(1022)、薬師堂などの諸堂がたちならぶ法成寺のさまは、あたかも極楽浄土が現出したかのような壮観を呈していたとつたえられる。1053年(天喜元)、道長の宇治の別荘の地にその子頼通が建立したのが平等院であり、池の中島にたつ阿弥陀堂は鳳凰堂とよばれる。を大きくはりだした優美な姿は完成された和様をしめし、阿弥陀如来座像を中心に堂内を荘厳する洗練された装飾的空間とともに、日本的な美意識の典型にかぞえられる。

この時代、浄土信仰の高まりによって普及した阿弥陀堂には、ほかに浄瑠璃寺本堂がある。これは現存する唯一の九体阿弥陀堂で、本堂の前の園池は浄土庭園の一例である。阿弥陀堂の形式は地方にも広がり、福島県の願成寺阿弥陀堂や平泉の中尊寺金色堂がある。奥州の藤原3代は数々の仏堂を造営し、なかでも秀衡の建立した無量光院はほぼ平等院鳳凰堂を模したものであったといわれるが、中尊寺金色堂のみが現存する。

なお、平安時代には貴族の住宅として寝殿造の存在が知られているが、その遺例はない。

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